監督が決めた進路「僕の意思は全くなかった」 感じた立浪との差…導かれた阪神での成功
久慈照嘉氏の東海大甲府は選抜でPL学園と対戦…立浪は「スケールが違った」
PL学園(大阪)に負けた時には、次の行き先が決まっていた。阪神、中日で活躍した守備の達人・久慈照嘉氏は東海大甲府高を卒業後、1988年から社会人野球の日本石油(現ENEOS)に進んだ。高校3年の1987年に出場した選抜大会を日本石油関係者が視察し、その時期には内定していたという。進路は尊敬する東海大甲府の大八木治監督に委ねる形。「選抜中に大八木監督に呼ばれて『お前は日石』と言われて、決まりました」と明かした。
1987年の選抜大会で東海大甲府はベスト4に進出した。1回戦では部員10人の大成(和歌山)に8回まで2-3とリードされたが、9回に2点を奪って逆転勝利。2回戦は滝川二(兵庫)を1-0、準々決勝は熊本工を4-0とエース・山本信幸投手の2試合連続完封で勝ち上がった。だが、準決勝は立浪和義内野手(現中日監督)らを擁するPL学園に3回まで5-0とリードしながら追いつかれ、延長14回の激闘の末5-8で敗れた。
「PL先発の野村(弘、元横浜)をKOして、(2番手の)橋本(清、元巨人、ダイエー)からも点を取ったけど、そこから取れなかった。PLは3人の投手で、ウチは1人。その差ですよね」と久慈氏は今でも悔しそうに話す。「東の久慈、西の立浪」とPLの遊撃手・立浪と並び称されていたが「立浪はとにかくうまかったし、かっこよく見えた。オーラを感じた。同じ高校生なのにスケールが違うなって思いましたね」。
思い出はその試合の第1打席だという。「僕は1番(打者)だったんですが、僕の打球を立浪は捕れそうで捕れず、グラブではじいたんです。ショート強襲ヒットとついたんで、あれは僕の中ではヨッシャーですよ」。立浪とは中日時代に同僚にもなったが「彼は雲の上の存在ですよ。昭和44年生まれの野球をやっていた人間は、みんなそう思っているんじゃないですか。その世代で名球会に入ったのは立浪だけですよ」と称える。
高校から社会人の日本石油(現ENEOS)へ「どこにあるのかも知らなかった」
立浪はその年のドラフト1位で中日に入団。高卒1年目でレギュラーとなり優勝に貢献し、新人王にも輝いた。一方、久慈氏は「プロなんて行けるレベルはない。全く考えてなかった」と言い、日本石油に進んだが、選抜大会で立浪らのPL学園と戦っている時にはもう決まっていたという。「PL戦の前か、そのもうひとつ前の試合かを日石の監督、コーチが視察に来られて、僕に目をつけてくれたんです」。
当時日石コーチで、のちに日石監督に就任する林裕幸氏は現役時代、社会人ナンバーワンのショートと言われ、東海大甲府・大八木監督の東海大相模、東海大での後輩。「林さんもショートだったので、僕のことを高卒で獲りたいと言ってくれたんです」。もともと、進路に関しては大八木監督に委ねる形になっており「僕は選抜中のいつだったかに、監督に呼ばれて『お前は日石』と言われただけ。僕は東海大に行くのかなって思っていたんですけどね」。
高校時代の久慈氏は社会人野球に詳しくなく「正直、知っていたチームはプリンスホテルだけでした。日本石油と言われても、どこにあるのかも知らなかったんですよ」と苦笑する。「あの時ウチのメンバーからピッチャーやセンターら4人が東海大に行きましたが、僕の場合は大学より社会人だ、って感じだったらしいです。(進路に)僕の意思は全くなかったんでね」とも話したが、それも納得してのことだったわけだ。
久慈氏は「日本石油にプロを目指そうと思って入ったわけではなかったです。ホント、決められただけでしたから」と繰り返した。それが社会人でさらに成長し、日石4年目の1991年ドラフト会議で阪神に2位指名され、プロでも1992年のセ・リーグ新人王に選出されるなど、活躍したのだから……。「結局は日石に行って大成功ですから。僕の人生を決めてくれた大八木監督に感謝ですよね」と笑みをこぼした。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)