ド軍キャンプ地行きの飛行機で身に起きた悲劇 「3日間寝込んだ」ドラ1左腕に続いた不運
都裕次郎氏は1987年のキャンプ中に左肩痛を再発させ、手術を受けた
1987年シーズンの中日は話題満載だった。闘将・星野仙一氏が監督に就任し、3冠王3度の落合博満内野手が牛島和彦投手らとのトレードでロッテから加入。さらにルーキーはドラフト会議で5球団が競合した近藤真一投手……。4月10日の巨人との開幕戦(後楽園)からユニホームもドジャースモデルになるなど“仕掛け”も豊富だった。そんな中、1976年ドラ1左腕の都裕次郎氏は1軍登板なし。春季キャンプ中に左肩痛を再発させ、手術したからだった。
1985年オフにスポーツ医学の権威、フランク・ジョーブ博士に勧められた左肩手術を回避。左肩周辺を逆に鍛えて「痛みを麻痺させる」強引なやり方で復調し、1986年シーズンを23登板2勝1敗で終えた都氏はオフも、その“方式”を継続させた。「12月も若手と一緒になってトレーニングしました。筋肉を落とさないようにね」。いい状態をキープした形で1987年に突入。星野新監督の下で、もう一度輝きを取り戻すつもりだった。
「キャンプの前半くらいまでは、立ち投げくらいまでは調子も良かったんですよ。その前の年よりもさらにいい感じで星野監督も“今年はいけるんじゃないか”みたいなコメントを出されたんですよ。でも、その後におかしくなって……」。恐れていた左肩痛の再発だった。また投げられない状態に陥った。「しばらくそんな感じだったので、星野さんにも『ぐだぐだしているんだったら、いっそのこと手術した方がいいんじゃないか』と言われてそうすることに決めたんです」。
3月に東京都内の病院で手術。「ドクターには新生骨、新しく生まれた骨が、左肩のちょうど関節のところで突起している。それが神経を刺激している、と言われました。周りにカスみたいなのもあるので、新生骨をとって周辺をきれいにして、同じような関節のかみ合わせだといけないから、関節をちょっと前にずらし、そうすると隙間ができるからそこに腰の骨を埋めるということで、麻雀牌くらいの腰の骨をその時の手術で削りました」。手術前日にそう説明されたそうだ。
左肩の痛みがなくなり、元のように投げられることを期待しての手術だったが、結果は思うようなものにはならなかった。「術後、半年くらいでピッチングができるようになりました。でも現役をやめるまで、それまでとは違うところに違和感がありました。関節を前に出したからなのか、可動範囲が逆に狭くなった感じがしました。後ろにいきづらくなったことでフォームは小さくなり、球威がなくなりました。球種すべてが減速しましたね」。
術後の米春季キャンプは発熱…到着即リタイア
都氏は少し声のトーンを落とし「いまだに、ずっと違和感があります。何もしなかったら、いいんですけど、たまにキャッチボールとかをやるとね。まぁ、もういいですけどね、別に……」と話した。左肩を手術した1987年は1軍登板なしに終わった。それでも当時は、さらに時間が経てば、また元のように投げられるのではないか、との希望を捨てるわけにはいかなかった。そのために手術したのだから、そう思って当然だろう。
「不安でしたけどね。スムーズに肩が回らないんですから……」。1988年、中日は当時のドジャースキャンプ地の米フロリダ州ベロビーチで1軍キャンプを行った。プロ12年目の都氏も、メンバーに入った。「連れていってもらったんですよ。まぁ、星野監督の温情もあったかもしれないですね」と話したが、ここでもあまりいいことはなかった。「行きの飛行機に乗っている間に熱が出て、着いてからも3日間くらい寝込みました」。まさかの到着即リタイアだった。
「ドジャースと合同で練習したんですが、チームドクターがジョーブ博士で『肩はどうだ』って聞かれて『結局、手術しました』と話し『風邪をひいたら、これを飲みなさい』ってコーラをくれたのを覚えています。キャンプの最初の5日間くらいはまともに練習ができなかったんですよ」。自己管理不足は星野中日の特大罰金の対象だ。「でも、あの時は罰金を取られなかったんですよ。多少大目にみてやるって感じでね。よく取られなかったなって思いますけどね」。
体調が戻っても元のようなボールは投げられなかったが、その後も懸命に調整した。4月21日の阪神戦(甲子園)では2番手で1回無失点。この年開場した東京ドームでも投げた。5月7日の巨人戦に2番手で1回無失点、被安打0、奪三振2。その時点でできることを出し切った。だが、1軍で登板しても全盛時には程遠く、歯がゆい気持ちも絶えず残った。
この年の中日はセ・リーグを制覇した。都氏は12登板、0勝0敗、防御率3.18。優勝には全く貢献できなかった。「手術しなかったらどうだったろうとかも考えましたが、どっちにしても一緒だったかもしれませんし、もうしかたなかったんですけどね……」。6年前の1982年の優勝時には16勝をマークする大活躍を見せたのが遠い昔に感じた。簡単には割り切れない。悔しくて、寂しい結果だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)