「森さんの下ではやりたくない」 新天地2年でトレード志願…引き金は“清原問題”
田尾安志氏は1985年に西武へ移籍しリーグV…広岡野球に驚かされた
1985年春季キャンプ前、田尾安志外野手(現・野球評論家)はトレードで中日から西武に移籍した。広岡達朗監督の管理野球を学び、勉強になった1年だったが、成績は127試合、打率.268、13本塁打、60打点。打率3割は4年連続でストップした。西武2年目の1986年は、さらに成績がダウンした上に、森祇晶新監督と波長が合わなかったという。ライオンズで2シーズンを終えた後、今度はトレードを志願した。
プロ10年目での新天地は田尾氏にとって「こんな野球があるんだなってね」と思うほど、新鮮なものだった。「広岡さんは、ものすごい細かい野球をされていた。バントひとつでも、一塁側への送りバント、三塁側への送りバント、プッシュバント、セーフティバント、全部サインが違ったんです。そんなところまで監督が指図するんだと思いました。それまではどっちかというと“バント、お前に任せたよ”って感じの野球でしたからね」。
すべてが徹底されていた。「チームバッティングといったら必ず右に打たないといけない。レフトにはホームランを打っても駄目、そういう野球。確かにきついけど、やっぱり勝つのかなって気がしましたね」。食生活の管理については「それは、そこまでの差は感じませんでした。お肉も食べさせてもらいましたし、そんなにはね。夕食時にアルコールは全然駄目というのはありましたけど、僕はしょっちゅう飲むタイプじゃなかったんでね」と苦にならなかったそうだ。
西武1年目の1985年は開幕から「3番・右翼」で起用された。開幕2戦目(4月8日、近鉄戦、西武球場)、3戦目(4月9日、日本ハム戦、後楽園)で2試合連続3安打をマークするなど、好スタート。4月は.314で乗り切った。オールスターにはパ・リーグ外野手部門のファン投票でぶっちぎりの1位選出。「ありがたかったですね」としみじみと振り返った。シーズン成績はダウンしたが、リーグ優勝を経験した。
日本シリーズは阪神と対戦し、2勝4敗。田尾氏は全試合に「3番・右翼」で出場し、22打数7安打の打率.318の成績を残したが、日本一はつかめなかった。第1戦から3試合連続本塁打を放つなど大活躍した阪神のランディ・バース内野手がシリーズMVP。「バースによくやられたって感じでしたね」。広岡監督はシリーズ終了後に勇退し、監督には森祇晶氏が就任した。
合わなかった森祇晶監督…発端は清原和博のポジション問題
森西武となった1986年、田尾氏は4月4日の南海との開幕戦(西武球場)に「1番・中堅」でスタメン出場し、4打数2安打。7回には南海・山内孝徳投手からソロアーチも放った。だが「覚えていなかったけど、いいスタートは切っていたんだなぁ」と何とも言えない表情で話した。この年は、その後、出番が減り、規定打席に到達できず、打率.265、安打数は、中日時代に最多安打をマークしていた頃の約半分の83安打だった。
田尾氏には森監督とのギクシャク感があった。それは春季キャンプでルーキー・清原和博内野手のポジションについて聞かれた時から感じていたそうだ。「森さんは清原サードを考えていたようで『どう思うか』と聞かれたので、『最初は(PL学園時代から守っている)ファーストがいいんじゃないですか』と言ったら気分が悪かったみたいで……」。森監督は清原を三塁、三塁の秋山幸二内野手を中堅、そして中堅の田尾氏を一塁にする構想だったと思われるという。
「監督がそうしたいと言えば、わかりましたってやるのが選手です。それに対して文句は言いませんよ。だから、あの時も意見を聞かないで自分で決めてほしかった。僕はどんなことでも聞かれたら、自分の考えを話しますからね」。結局、清原は一塁でデビューして成功した。「それに関しては僕の方が正しかったと今でも思っていますけどね」と笑みを浮かべながら振り返った。
そんな森監督の凄さも感じたという。リーグ優勝し、広島との日本シリーズは第1戦が引き分け。第2戦からは3連敗で王手をかけられたが、そこから4連勝で大逆転日本一になった時のことだ。「ミーティング、ミーティングで頭でっかちになって1分け3連敗。そしたら森さんが『今日はミーティングなし。選手だけでやってくれ』って言われたんです」。
西武ナインは集まって「次、負けたらみんなでゴルフに行こう」と話したという。「4連勝することはないだろうからってことでね。でも、そこから勝ちだしたんですよね」と話し、こう続けた。「並の監督だったら、2勝した時点とかでミーティングをまたやったかもしれないけど、森さんは最後までやらなかったんです。流れを変えなかった。さすが勝負師だなって思いましたよ」。
初の日本一経験も…球団管理部長に「トレードに出してくれませんか」
この日本シリーズで田尾氏は20打数6安打の打率.300。第5戦、第7戦、第8戦には「1番・中堅」でスタメン出場し、1安打、2安打、2安打と結果も出した。自身にとっては初の日本一。「いい経験をさせてもらいました」という。しかし、そんなシリーズを終えて、田尾氏はまたアクションを起こす。西武・根本陸夫管理部長に「トレードに出してくれませんか」と頼んだのだ。
「僕には翌年が見えていたわけですよ。日本シリーズは最後の最後に切羽詰まって僕を使ってくれたけど、またゼロからのスタートになったら、森さんはきっと違う選手を使うだろう、僕を使わないだろうなってね」。根本部長には「何があったんだ」と聞かれ「森さんの下ではやりたくないです」と言ったそうだ。「根本さんも森さんのことはわかっているんで『横浜でもいいか』と提案してくれました。僕は『どこでもいいです』と言いましたよ」。
早速、宏子夫人と横浜で家探しをした。「ここにしようって、手付け金まで入れていたんですけど、決まったのは阪神だったんです」。阪神の吉竹春樹外野手、前田耕司投手との1対2の交換トレードだった。現在、田尾氏はトレード相手の前田氏が代表取締役でスポーツマネジメントなどを手がける株式会社「プロアスリート」に所属している。その頃から縁もあったということだろう。
わずか2年の西武時代を経て、プロ12年目シーズンからは阪神で戦うことになった。「女房に『横浜じゃなくて、阪神だった』って伝えたら『芦屋夫人と呼ばれたい』って。あのひと言も、なかなかほぐれるひと言でしたねぇ」と田尾氏は笑顔で話す。「ここが最後のチームだろうと自分で決めて、ユニホームを着させてもらいました」と腹も括っていた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)