巨人パレードで感じた「人気の差」 直訴した自由契約、古巣“出戻り計画”も…まさかの破棄
2007年オフにロッテを自由契約…藤田宗一氏は巨人を選択した
やっぱりジャイアンツは違った。愛しのロッテを2007年オフに自由契約となった中継ぎのスペシャリスト藤田宗一氏は、数チームから獲得オファーが届いた中で巨人を選んだ。球界を引っ張ってきた伝統球団で3年間プレーしてみて「メディアを始め、人が多かったですね。どこで誰が見ているか分からない」と注目度の高さを実感したという。
藤田氏は、どのチームも喉から手が出るほど欲しい実績十分の救援サウスポー。巨人が提示した待遇より好条件の球団はあったという。それでも巨人に決めた理由は「セ・リーグでやってみたかった」。人気面で魅かれたと捉えられそうだが、違った。
藤田氏は2007年シーズンは肩の怪我に悩まされ、防御率12点台に終わった。「肩が100%ではないので、7、8割の力しか出せません。その中で抑えないといけない。そうして考えた時にセの方が抑えられるだろう、と。交流戦とかで対戦していましたから。パとセのレべルです」。冷徹に分析した上での選択だった。
名門ならではの慣習には、驚かされた。シーズン中の遠征でのことだ。巨人は“ジャイアンツタイム”と呼ばれる程に時間に厳しい。藤田氏も予定時間よりかなり早めに球場に向かうバスの乗り場へと歩いていった。されど既に出発済み。「僕は、ほっておかれました(笑)。マネジャーに尋ねると『あーごめん、タクシーで来て。原(辰徳)さんが乗ったら出るんだ』。巨人では監督が乗車したら出発でした。でも日によって原さんの入りの時刻が異なるんですよ」。
肩が万全でないにも関わらず、移籍1年目の2008年は39試合登板でリーグ優勝に貢献してみせた。2009年も19試合と登板数こそ減ったものの、防御率2.08の安定感。チームも日本一に輝き、11月22日には東京・銀座パレードが実施された。3.1キロの沿道に押し寄せた約34万人ものファンから途切れることのない大歓声を浴びた。
藤田氏は2005年、ロッテ日本一の際にも千葉・幕張で優勝パレードを経験している。「こればかりは、やっぱりジャイアンツやな、違うなーと思いました。幕張の時も『千葉にこんなに人がいるのか』でしたが、巨人は銀座を抜けていきますからね。『セ・リーグとパ・リーグの人気の差が出るなぁ』と、もっとビックリしました」。
巨人3年目は「干されて」1軍なし…古巣ロッテの復帰も土壇場で消滅
巨人で最も印象に残る一戦は、2009年9月4日のヤクルト戦(東京ドーム)。延長11回に加藤健捕手が頭部死球を受けて退場し、本職が1人もいなくなった。3-3の12回は内野手登録の木村拓也が急きょマスクをかぶった。その回の1死からリリーフした藤田氏は、臨時キャッチャーの巧みな配球に導かれ、青木宣親外野手から三振を奪った。木村氏は2010年4月のコーチ時代に試合前の練習中に倒れ、亡くなった。「タクヤとは同い年で一緒に食事をしたりする仲でしたから」。
巨人3年目の2010年、藤田氏はプロ13年目で初めて1軍登板がなかった。
「肩は治って、ジャイアンツに来てから一番良かった。ファームでも結構投げて、ずっと抑えたんですけど……。1軍から声が掛からない。プロで長くやっていれば、干されたのかな、と分かります」。翻ってみると心当たりがあった。“直言居士”の藤田氏はあるコーチに対し、他の選手への指導について「あと一言が足りないのでは。もう少しフォローしてやってくれませんか」とお願いしていた。
夏場には状況を変える行動に出た。球団幹部に直談判したのだ。「今年で自由契約にして下さい」と申し入れ、了承された。
2度目の自由契約で迎えた秋、古巣ロッテに連絡した。肩の状態を見極めてもらうため、千葉・鴨川キャンプで入団テストを受けた。「『獲るよ』とまで言って頂いていたのですが……」。再出発に燃えていた12月半ばになって「悪いな。獲れなくなった」と話がひっくり返ってしまった。
「球団も会社なので、いろんなことがあるでしょう。そこは仕方ないですけどね。ただ、もうちょっと早い時期に伝えてもらえていれば、他を調べられたかもしれない」。ドラフトやトレード等で、年末には各チームとも新しい陣容を整えている。38歳だった藤田氏は野球人生の瀬戸際に立たされた。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)