予期せぬ戦力外、長嶋監督に入団直訴 運命の紅白戦…清原が厳命した「絶対に打つな」
金石昭人氏はコーチ要請を断り日本ハム退団…巨人・長嶋監督と直接会談した
何が何でも野球を続けたかった。プロ3球団で通算72勝80セーブをマークした野球解説者の金石昭人氏は、1997年オフに日本ハムを自由契約となった。「まだ燃え尽きていなかったから」。翌春に巨人キャンプでの入団テストを経て移籍した。プライドをかなぐり捨てて選手生命を繋いだ日々を回想した。
1996年の日本ハムは、金石氏と島崎毅投手(現・独立リーグ富山コーチ)のダブルストッパーで臨んだ。金石氏はシーズンが進むにつれ、変化を感じた。「8回は島崎、抑えの自分がラストの9回を締める順番でした。それがコーチから『島崎の状態がいいから、そのまま投げさせる』と言われる起用が増えたのです。そういう使われ方をしたら終わりじゃないですか」。1997年は6登板にとどまった。
迎えたオフ。球団幹部から契約を更新しない旨を通告された。「日本ハムをクビになるとは思わなかったですね。それだけの事をやってきていたので」。この年を除けば、広島から1992年に移籍して以降、毎シーズン2桁勝利か2桁セーブの数字を残してきた。「コーチ就任の要請がありましたが、断りました。中途半端な形で選手を辞めたくなかった。もうちょっと現役をやりたかったんです」。
当時は、12球団合同トライアウトは実施されていない。「だから他チームからのオファー待ちです。ところが、待てども待てどもどこからも声が掛からない。『あー、俺このまま野球を辞めることになっちゃうのかな……』と諦めかかっていました」。もう年の瀬。嫌でも“引退”の文字が頭をよぎる。
広島から東京に移住して6年。もともと広い交友関係がさらに広がっていた。巨人の長嶋茂雄監督(現・巨人終身名誉監督)と親交のある知人が間を取り持ってくれた。東京・赤坂の寿司店で直接会談し、現役への熱い思いをぶつけた。「長嶋さんは別格ですからね。そりゃあ緊張しました。『わかった。キャンプにテスト生として参加してくれ。そこで評価する』と仰って頂きました」。当時の巨人は抑えに課題を抱えていた。
翌日から体をいじめ抜いた。「僕にはもう他にチャンスがない。翌春の2月1日には100%のピッチングをしないと駄目。必死でしたよ」。練習の相手も場所も探し回った。「全国いろんな所に行って手伝ってもらった。沖縄で自主トレをしていた日本ハムで同僚の下柳(剛)も付き合ってくれました」。
練習相手も場所も探し回った自主トレ…紅白戦で清原が「金石さんから打つな」
1998年の巨人キャンプ直前は、広島時代の後輩で、宮崎市内でお好み焼き店を経営する片岡光宏氏の家に居候。キャンプもそこから通う予定だった。「でも長嶋さんに配慮してもらいました。チームと同じ宿舎で行動していいよ、と。有り難かったです」。
ただし、テスト生のため追加メンバー。ホテル側も精一杯の受け入れ準備をしたのだが、何しろ突然。「倉庫を改修した部屋でした。布団もせんべい布団」。PL学園の後輩、桑田真澄投手(巨人2軍監督)、清原和博内野手が挨拶に訪れた時に「ええっ、金石さん、ここに泊ってるんですか?」と驚いていた。「『じゃあ、部屋代わってくれ』って言いました。でも代わってくんなかったけどね」と笑う。気遣いが心に染みた。
キャンプイン。実績十分の37歳ながら、年の離れた若手らに交じりメニューを黙々とこなした。「最初の1週間とかで合否が決まるのなら気持ちも少しは楽だったんでしょうけど。丸々1か月間練習して、最後の紅白戦で評価を受ける形になりました。気の休まる時がない。精神的に疲れますよ」。槙原寛己投手、広島時代の先輩・川口和久投手らの食事の誘いに心が癒された。
“野球の神様”は悪戯をした。運命を決める紅白戦。金石氏が「よし、行くぞ」とスイッチを入れたら雨が降ってきて中止になった。仕切り直しの2月26日。2イニングを被安打3、無失点で合格を勝ち取った。「走者をためて、最後は大飛球を打たれたんですよ。『あー、ホームランかなー』と思ったらレフトフライ。ゼロで抑えることができました」。
金石氏は、しばらくして話を耳にした。「清原がね、紅白戦の前にみんなに『金石さんからは絶対に打つなよ』って言っていたみたいです。実際、清原は目を瞑って三振してくれたんじゃなかったかな(笑)」。
金石氏はプロ20年目の現役を掴んだ。結果は無論のこと、その真摯な姿勢に魅かれた周囲の支えで。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)