指揮官に届かなかった「もう無理です」 上がらぬ右肩…薬も効かず悟った“限界”
牛島和彦氏は1989年に初めて先発専任…自己最多の12勝をマークした
28歳にして“初体験”だった。元ロッテ投手の牛島和彦氏(野球評論家)はプロ10年目の1989年、21登板21先発で、キャリアハイの12勝を挙げた。「先発では成績を残せなかったと言われるのが嫌だったんでね」。6月に4勝0敗、防御率2.63の成績で初の月間MVPに輝くなど、リリーフ兼務なしのフルシーズン先発へのチャレンジで見事に数字を残した。だが、9月に右肩を痛めて最高勝率タイトル目前で無念のリタイア。明と暗があった年でもあった……。
ロッテ移籍後の2シーズン(1987年と1988年)で守護神を務めた牛島氏が1989年に先発に回ったのは有藤道世監督の配慮によるものだった。「『ずっとリリーフでメンタルもだいぶ疲れているだろうから、1年、先発をやってみるか』と有藤さんが言ってくれたんです。28(歳)だから今ならいけるかと思って『やります』と答えてチャレンジすることになったんです」。牛島氏にしてみれば願ってもないことでもあった。
1986年オフにロッテ・落合博満内野手と中日・牛島投手、上川誠二内野手、平沼定晴投手、桑田茂投手の1対4の交換トレードが決定。牛島氏は通告を受けた際に、現役引退を真剣に考えた末に踏みとどまって移籍したが、その理由のひとつとして「やっぱり先発ローテーションのエースがチームでNo.1で、抑えのエースはNo.2なんですよ。そのポジションにしかいられなかった俺が悪かったのかなぁと思ったんです」と口にした。
「よーし、ロッテに行って俺が1番になってやろうと思いましたからね。まぁ村田(兆治)さんがいたので1番にはなれなかったんですけどね」と笑みを浮かべながら話したが、先発転向はトレードの時の悔しさを晴らすチャンスでもあった。「リリーフでしか結果を残せないとか言われるのも嫌だったので、1年間フルに先発して結果を残したいという思いがありました」。気合を入れ直してシーズンに臨み、21登板で8完投の12勝5敗、防御率3.63の成績を残したのだ。
「最初は先発のペースがわからなくて、1回からリリーフのように1本もヒットを打たせないみたいな感じでやって球数ばかりが増えて、あまり勝てなかった。これじゃあアカンと早いカウントで打たせていけるようになってから勝ち星がポンポンと増え始めたんです。打たれちゃ駄目だといっぱい、いっぱいを狙うのをやめて、タイミングを外しながらでいいやって思ってからね」。4月は1勝3敗だったが、5月は2勝0敗で勝ち負けを五分に持ち込んだ。
タイトル目前で発症した右肩痛「無理でした、薬も効かない感じでした」
6月は4試合連続完投勝利での4勝0敗、防御率2.63。自身初の月間MVPにも輝いた。「それでやっと自信がついたって感じでしたね」。先発での活躍も評価されて、オールスターゲームに監督推薦で出場。8月5日のオリックス戦(西宮)では6回1失点投球で10勝に到達した。いいペースで勝ち星を積み重ねていたが、ここから流れが変わった。11勝目は約1か月後の9月9日の西武戦(釧路)。事態は暗転した。
8回2/3を2安打1失点ながら10四球を与えるなど、苦心の投球でつかんだ11勝目だったが、そこで右肩を痛めたという。「釧路は寒くて、着込みすぎて肩甲骨の動きが悪くて……。血マメもつぶれて痛くて指先をかばって投げて、肩を壊したんですよ。その時はわからなかったんですけど、全然調子が悪かったので、途中で代えてくださいと言ったんです。だけど、6回くらいまでノーヒットで抑えていたし、ピッチャーもいないし投げろとか言われて……」。
後になって異変を感じ取った。「投げてから何日か経ったら、全然、腕が上がらなくなったんです」。首脳陣にも申告した。「『肩がおかしいから、もう無理です』と言った」という。「だけど結局『勝率1位がかかっているから取りに行けよ』という話になったんです」。懸命に調整し、中16日で9月26日のダイエー戦(平和台)に先発して7回無失点で12勝目を得たが「痛み止めを飲んで何とかしたという感じでした」。そんな状態での白星だった。
当時のパ・リーグでも最高勝率タイトルの規定は「シーズン13勝以上を挙げた投手のうち、勝率が最も高い投手」。牛島氏がそのタイトルを狙うには、あと1勝が必要だった。「もう1試合と思ってやったんですけど、もう放れませんでした。無理でした。もう薬も効かない感じでした。それで『もう投げられません』と言って……」。それがその時の限界だった。先発専任で自己最高の結果を出しながら、最後は無念のリタイアになった。
1989年のパ・リーグ最高勝率のタイトルはオリックス・星野伸之投手が15勝6敗の勝率.714で獲得した。もしも牛島氏があと1勝上乗せして13勝5敗にしていれば勝率.722となり、上回ることが可能だった。それだけに何とも悔やまれる故障だろう。「そこから医者巡りとリハビリが始まったんですよね」。それは怪我との本格的な闘いの幕開けでもあった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)