世紀のトレードも…確約されていた中日復帰 「紙もあるけど」譲れなかった“復帰の文句”

中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】
中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】

牛島和彦氏は1986年オフにロッテ移籍…中日とは“将来復帰”の約束も実現せず

 元横浜(現DeNA)監督で中日、ロッテでは投手として活躍した牛島和彦氏は現在、評論家として野球と関わり続けている。今後については「もう世の中、縁のものやなぁみたいな……。いろんな縁があって、その縁をどういうふうにつなげていくかと思っている」と言う。1986年オフに落合博満内野手との世紀のトレードで中日からロッテに移籍してから40年近くになるが、プロ野球人生をスタートさせた中日など古巣への思いは……。

 横浜監督を2006年に退任してから、牛島氏はプロ野球球団のユニホームを着ていない。野球人生における次なる目標、夢はどうなのか。「それはあまりないですね」と笑いながらもこう続けた。「例えば、今、打球速度とかスピン量とか、いろんなことがだんだん入ってきているけど、それとはまた違う意味のボールが見づらいとか、打ちづらいとか、そういうところで役に立てるのであれば、いくらでもアドバイスができるかな、伝えられるかなと思いますけどね」。

 強調したのが「縁」だ。球界きっての理論派で、まだ63歳。これから先、監督や指導者の話があっても不思議ではないが「例えば監督なら2回目になりますし、自分の思ったコーチは連れてこないでとかなったら……。やっぱり自分を理解してもらえる人が周りにいてできるのであればというのはありますね。経営とかもあるでしょうけど、自分の思っていることが伝わらないところでやってもストレスをためて体を壊すだけの世界になりますから」と話す。

 中日からロッテに移籍する際に“将来、中日に戻す”との約束があったと言われているが、これについても「そんな話はありましたし、紙もありますけど、僕は(トレードで)出た限り、そういうのは全く気にしていませんでした」と明かす。その上で「戻す約束があるから帰って来い、だったら、ノー、“お前が絶対に必要だから帰ってきてくれ”だったら、考えますってそういうふうに思っていました」とも付け加えた。

 約束をかわした当時の中日監督だった星野仙一氏が、その後中日を退団し、阪神、楽天の監督などを務めたこともあり「星野さんは最後(中日)球団とすったもんだになっているから、それもまた別問題なんだろうなとも思いますけどね」と話したが、何事にも白黒はっきりしているのは、まさに牛島氏らしいスタンスだろう。そういうこともすべてひっくるめて「縁」があればということだ。

 古巣の中日、ロッテ、DeNAの3球団のことも「気になるかと言われたら、そうでもないですよ」と話す。「球団よりも個々の選手が気になりますね。今、(三浦)大輔が監督をやっているじゃないですか。何とか男にしてやりたいなぁ、みたいなね。そんな感じです。もう中日もロッテも一緒にやっていたヤツはほぼいないですからね。(中日監督の)立浪(和義)も一緒にはやっていませんしね。山本昌が現役の時は“昌頑張れ”って見ていたんですけどね」と笑った。

今は亡きドカベン香川伸行捕手への思い「ホント寂しいですよね」

 さらには「横浜は大輔だけじゃなく、僕が監督の時の選手がコーチ陣にもいますからね。別に横浜を応援しているわけじゃないですよ。個々のことは気にしていますということです。それよりも、中日にしてもロッテにしても、この選手、もっとこうなれへんのかなとか、もっと頑張ってほしいな、とか、何でしょっちゅう怪我するんやろうとか、いろんな目で見てしまいますね」とも……。

 牛島氏の現役時代とは違って、今の投手は球数、イニング数、登板間隔、すべての面で大事に起用されている。「それは僕が監督の時もそう。自分が経験してきたから選手にさせようとは思わなかったですよ」と言い「僕の時は投手のやりくりがしんどい時に、もう1イニング行ってくれたら助かるなと思って、その投手を見たら、彼もこっちを見ていて、僕がごめんってやったら、もう1回投げてくれという前にOKってやってくれたんですよ」と懐かしそうにも話した。

「川村(丈夫投手)のことですけどね。彼みたいなベテランは僕が考えていることをわかってくれていて、ホントありがたかったんですよ」。それはもちろん現在にも通じることだ。「監督と選手のそういう距離感、関係性というのがね。監督と選手って“はい”か“いいえ”じゃないですか。もっと言えば、みんな“はい”じゃないですか、そんなんじゃなくてお互いの気持ちで“頑張ります”とか“申し訳ない”とか、そういうやり取りがあればいいかなと思うんですけどね」と述べた。

 ここまでいろんなことがあったが、振り返れば、浪商(大阪)で“ドカベン”香川伸行捕手(元南海)に出会えたことがやはり大きかったという。「彼がドカベンと呼ばれたから、僕も注目されましたのでね」。あの黄金バッテリーがあったからこそ、今があるわけだが、その香川氏はもういない。2014年9月26日に心筋梗塞で亡くなった。52歳の若さだった。

「もう10年になりますね……。この間のことのような気がしますけどね。最後に会ったのは僕が(横浜の)監督で福岡遠征の時かなぁ。一緒にいてワーワーする仲じゃなかったけど、若くして亡くなって、ホント寂しいですよね」。2018年8月8日、牛島氏は夏の甲子園100回大会4日目にレジェンド始球式を務めたが「あの時も香川が生きていたら、僕だけじゃなくバッテリーで呼ばれただろうなって思いましたね」。

 牛島氏の野球人生は香川氏との縁をはじめ、たくさんの縁でつながっている。楽しいこともうれしいこともあった分、つらいことも悲しいこともあった。いろんな戦いもあったが「セ・リーグもパ・リーグも経験できたし、怪我をしたことで肩や肘のこととかも含めていろいろ勉強することもいっぱいできた。監督も経験できましたしね」。それはまだまだ続いていく。これからもまた新たな「縁」が待っている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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