張り紙で知る“戦力外”…去る同僚見て「日本は恵まれている」 米留学で消えた笘篠誠治氏の甘い考え
西武で活躍した笘篠誠治氏は3年目に米へ野球留学「恵まれていると思いました」
西武の“名脇役”として黄金時代に欠かせない存在だった笘篠誠治氏は広岡達朗、森祗晶といった名将の元でプレー。Full-Countのインタビューで両監督の逸話やユーティリティーとしてプロの世界で生き抜く決意などを明かした。
入団3年目の1985年はカリフォルニア 州に本拠地を置くサンノゼ・ビーズの一員として過ごした。現地では試合後のロッカーにクビを意味する紙が貼られていた選手は、そのまま荷物をまとめてチームを去っていった。
「日本は恵まれていると思いました。野球に対する考え方の甘さは消えた。せっかく西武ライオンズのユニホームを着ることができたのだから、絶対に4年目までに1軍に定着しようと思いました」
米修行を終えた4年目の1986年から森祗晶が監督に就任。「やっと白いお米を食べられるようになりました」。前任の広岡達朗監督は体調管理に厳しく、白米が禁止されていたのは有名な話だ。「すべて玄米でした。球場はもちろん、寮で炊飯器を開けたら茶色いお米。いつもお腹を壊していました。飲み物もお茶か豆乳でしたね」。
そうそうたるメンバーが揃う当時の西武で、入団4年目の笘篠氏が1軍に定着するために考えたのは「守備と走塁を磨くしかない」。試合前練習では、打撃はそこそこに、ほぼ走塁と守備に費やしたという。走塁では二塁で打球判断。内野ではノックを徹底的に受けた。「セカンドランナーでの打球判断に対しては12球団で自分が1番うまいと思ってやっていました」。
黄金時代の西武「“ここ!”となったときの結束力はすごかった」
内野手として高い守備力と走塁技術でチームを支えてきたが、1994年から外野手登録に変わった。きっかけは1988年の阪急(現オリックス)戦で西岡良洋が代打で安打を放ち、一塁ベースを回ったところでアキレス腱断裂の重傷を負ったことだった。
ベンチに控えの外野手が残っていない。笘篠氏は森監督から「お前、外野はやったことがあるか?」「小学生の時にやっていました」「そうか、あるのか。まずは代走に行ってこい」。攻撃を終えてベンチに戻ると「レフトに行け」。驚いて思わず「(外野手用)グラブがありません」と返答すると、平野謙から「トマ、俺の練習用のこれを使え」と渡された。
「外野なんてプロに入ってほとんど練習したことはありません。ぶっつけ本番でした。するといきなり先頭の松永浩美さんのラインドライブの打球が飛んできて……必死に地面スレスレで捕ったんです」。このプレーを見た森監督から「お前外野できるな。内野と両方練習しておけ」。笘篠氏も「試合に出られるチャンス増えるかもしれない」と受け入れた。
そこからは試合前の練習で外野の守備も追加。打撃練習で飛んでくる“生きた球”を延々と追いかけた。徐々に外野での出場機会も増え、数年後の登録変更に至った。
笘篠氏がプレーした1983年から1997年までの15年間で西武はリーグ優勝11回(3位4回)、日本シリーズ制覇7回を誇った。
「いろいろな性格の方がいた。みんなでつるんで……というの感じではなかったです。でも野球に関しては“ここ!”となったときの結束力はすごかった。石毛(宏典)さんが先頭に立って『よしいくぞ、今日は負けられないよ!』と声をかける。負けている試合でも『この試合落とせないから逆転するぞ』と言えばグッと束になって勝っていった印象強い。試合が始まる前から、きょうは勝つだろうなという空気は感じていました。それは慢心ではなく」。懐かしそうに黄金時代を振り返った。
(湯浅大 / Dai Yuasa)