FA残留も「使う気ないですよね?」 翌年戦力外…妻の後押し、笘篠誠治の人生変えた「脱げ」
笘篠誠治氏はFA権行使を巡り東尾修監督と高級フグ料理店で会談
西武で15年間プレーした笘篠誠治氏は高い守備力と走塁技術を武器に黄金時代を支えた1人だった。1996年オフにフリーエージェント(FA)権を行使して残留したが、当時の東尾修監督に「僕を使う気はないですよね」と“直球質問”をぶつけていたという。驚きのやりとりと97年シーズンでの現役引退の背景をFull-Countのインタビューで明かした。
プロ14年目の1996年を29試合37打席の出場で終えた笘篠氏は球団に東尾監督との話し合いの席を設けてほしいと依頼した。同監督就任初年度の1995年も57試合の出場で、それまで3桁が続いていた試合出場数が監督交代を機に“激減”していた。
本人から呼び出された東京・赤坂の高級フグ料理店。2人きりの個室で「なんや話は?」と切り出した指揮官に、思い切って伝えた。
「僕を使う気ないですよね?」
現役時代にケンカ投法でならした東尾監督に“ド直球”を投げ込んだ。実は当時、FA宣言すれば阪神が自分を獲得に動く、という業界内の“裏情報”もあった。真偽のほどは不透明だったが、プロ選手として出場機会を求め、環境を変えることは視野に入れていた。
「頭(スタメン)では使わない。でもいてくれないと困る」。東尾監督も笘篠氏の思いに対し、正直に返答した。守備固めも代走でも、バントなど小技も確実に仕事をこなすユーティリティプレーヤーとして、ベンチには欠かせない。そして同監督は提案した。
「FAして残留しろ。俺が球団にいうから。減俸の額も抑えてもらうようにいうから」。1996年は打率.300だったが出場試合数が前年からほぼ半減(57→29)しており大幅減俸は確実。そこで監督が自ら減額緩和を球団に掛け合う代わりに、FAでの宣言残留を条件とした。笘篠氏は「本来なら2000万円くらいダウンだったと思いますが、500万円のダウンで済みました。再契約金もなかったです」と笑った。
33歳で戦力外…引退決断への背中を押した妻の言葉
迎えた1997年は現役ラストシーズンとなった。高卒1年目を除き、キャリア最少の24試合で打率.150。それでもプレー機会が少ないながらも2犠打4盗塁を決めるなどベテランの技は健在かと思われたが、9月に入ると球団からスーツ着用で球団事務所にくるように連絡があった。
「来たよ、と。シーズン中の呼び出しだから、そういうことだとは分かっていました。女房に『クビ切られてくるから。じゃ、行ってくるわ』といって球団事務所に向かいました。その時点で33歳です。打つ方は少しずつ衰えていきましたが、自分は走れなくなったら辞めようと思っていたんです。守りと走るのは、もう1年はできると思っていたんですけどね」
浦田直治球団本部長から「来年は契約しないから」と予想通りに戦力外を通告された。「もう少しやらせてください。(あと116試合で)通算1000試合出場もあるんですよ」。「トマ、もうええって。(ユニホームを)脱げって。教えろ、若いのを」。その場でコーチ就任を打診された。仮に他球団に移籍したら“コーチ手形”はなくなると伝えられた。
「1日猶予ください。カミさん(千恵子夫人)と相談します」。夫人には以前から引退後は若手に指導することが次なる夢であることを伝えていた。それだけに千恵子夫人からは「コーチをやりたいんだったら、もう辞めて、やってみたら」と背中を押された。
「分かった。お前が納得してくれるなら明日、手続きをとってもらうわ、と言って引退を決意しました。あと1、2年はできるかなと思っていたのですが、辞めると決めた瞬間から、教えるのが楽しみになっている自分がいたんです」
西武一筋15年。通算884試合、打率.256、18本塁打、121打点。そして90盗塁、122犠打。記録よりも“名脇役”として記憶に残る笘篠誠治の選手生活は幕を閉じた。それは、5球団22年に及ぶコーチ生活の幕開けでもあった。