監督室で「落合さんと代えてくれ」…抹消中の直談判、広瀬哲朗が口走った“禁句”にコーチ激高
3冠王の加入で定位置剥奪…元日本ハム・広瀬哲朗氏の現役引退舞台裏
北海道移転以前、東京ドームを本拠地としていた時代の日本ハムをキャプテンとして牽引し、ゴールデン・グラブ賞に2度輝くなど名遊撃手としても鳴らした広瀬哲朗氏。ファイターズ一筋で13年間活躍したが、最終年の1998年は1軍出場なしの寂しいラストとなってしまった。ほろ苦い悔恨を含めて、本人が振り返る。
現在63歳となった広瀬氏は、東京・江戸川区の軟式少年野球チーム「城東ベースボールクラブ」で月4~5回、就学前の幼児や“体験入部”希望の子どもたちの指導を担っている。「良くも悪くも、いろいろな経験をさせてもらってきたからね。今の子どもたちや親御さんたちが、そんな私の姿から何かを感じ取ってくれたらといいなと思っていますよ」と穏やかな笑顔を浮かべる。
「野球人生に悔いはないけれど、もしあの時、落合博満さんの言うことを聞いていたら、また違った人生を歩んだのかもしれないとは思うよ」と振り返るのは、引退前年の1997年のことだ。
この年、巨人を自由契約となった3冠王3度の落合氏が43歳にして日本ハムと契約し、一塁のポジションに収まった。前年に一塁を守っていた片岡篤史氏(現中日ヘッドコーチ)が三塁に回り、チームリーダーでもある三塁の広瀬氏は、弾き出されてレギュラーポジションを失うことになった。
「それなら、セカンドで勝負させてくれ」。広瀬氏は当時の監督・上田利治氏に直訴した。二塁には前年に新人王を獲得した21歳のスター候補・金子誠氏(現ロッテ戦略コーチ)がいたのだが、広瀬氏は意地になっていた。「春季キャンプでもセカンドの練習をして、レギュラーに返り咲こうとシャカリキになった。上田さんも、ヘッドコーチを務めていた住友平さんも、もう好きにしろ、という感じだった」と苦笑する。
「そんな私を見て、落合さんは『お前はこのチームにとって絶対に必要な存在なのだから、キャンプでは俺と一緒にのんびりと体をつくっておけばいい』と言ってくれたけれど、素直には聞けなかった」と吐露する。結局、当時36歳の肉体にはオーバーワークとなり、“命取り”の左股関節痛につながった。
チームの危機に居ても立ってもいられず東京ドーム、そして監督室に乗り込んだ
こうして迎えた翌1998年。広瀬氏は終始2軍暮らしだったが、1軍はシーズン序盤から2位以下に大差をつけて首位を独走。17年ぶりのリーグ優勝は間違いなしと思われた。ところが、経験不足がたたったのか、後半になるとじりじり後退し、結局、当時常勝だった西武に大逆転Vを許した。
チームが下降線をたどり始めた頃、広瀬氏は居ても立ってもいられず、出場選手登録もされていないのに、1軍戦の試合前、東京ドームに足を運び監督室に乗り込んだ。「監督、頼む。俺がみんなに元気を出させるから、1軍に上げてくれ」と訴えたが、上田監督の答えは「代わりに2軍へ落とす選手がいない」だった。
「それを聞いて、俺は何を思ったか『落合さんと代えてくれ』と口走ってしまった。その時は落合さんも代打くらいでしか、出られなくなっていたからね」と広瀬氏。選手起用が監督の専権事項であることは重々わかっていたが、もう止まらなかった。
上田監督は一切反論せず、「すまん」とだけ言ったという。広瀬氏はなおも、上田監督が2年前の1996年、優勝争いの最中に家族の問題で突然休養してチームを離れた一件に言及し、同席した住友ヘッドコーチが「広瀬、それを言ったら終わりやろ」と激高するに至って、話し合いは物別れに終わった。そして広瀬氏は「これをもって、俺はユニホームを脱ぎます」と口にしてしまった。
「上田さんはその後、『俺の力になってくれないか』とコーチ就任まで打診してくれたのだけれど、断って解説者になった」。現役時代にチームリーダーとして人望を集めていた広瀬氏だが、日本ハムをはじめNPB球団でコーチを務めたことは、これまでに1度もない。
奇しくも因縁の落合氏と共に、1998年限りで現役を退いた広瀬氏。ファン感謝イベントであいさつをした程度で、特に引退試合は行われなかった。それでも「その年のシーズン最終戦が千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)で、ファイターズファンは私のテーマ曲だった『男はつらいよ』を演奏して、『広瀬を出せ、広瀬を出せ』とコールしてくれたそうだ。後から聞いた話で、直接(演奏を)聞いたわけではないけれど、うれしかったな」と笑みを浮かべる。
「東京を本拠地としていた時代の日本ハムは、比較的地味な存在だったけれど、北海道に移転(2004年)してからは、ダルビッシュ(有投手=現パドレス)、中田翔(内野手=現中日)、斎藤佑樹(投手=現会社経営)、大谷翔平(投手=現ドジャース)らスターが出たよね。新庄(剛志)監督が就任してからは、明るく派手なチームになった。“大谷くんの先輩”と私が名乗っても嘘ではないし、そう言うと子どもたちの食いつきがいいよ。ありがたいね」と、場所的に少し遠くへ行ってしまった古巣に思いを馳せる。
ファイターズの球団史の中では、広瀬氏の負けん気あふれるハッスルプレーも息づいている。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)