敗戦に号泣…“反省”の最終回「弱気になった」 新指揮官が悔やんだ「打っていない怖さ」

横浜高戦の指揮を執った武相高・豊田圭史監督(右から2番目)【写真:中戸川知世】
横浜高戦の指揮を執った武相高・豊田圭史監督(右から2番目)【写真:中戸川知世】

神奈川・武相高が準決勝で横浜高に敗戦

 56年ぶり夏の甲子園大会出場を目指していた神奈川・武相高は23日、横浜スタジアムで行われた神奈川県大会の準決勝で横浜高と対戦し1-2で9回サヨナラ負けを喫した。春3回、夏2回の全国制覇を誇る名門を相手に、一歩も引かぬ接戦を展開したが敗退となった。

 1-1で迎えた9回の守りだった。先発して横浜高の強力打線を1点に抑えていた2年生・八木隼俊投手が2死一、二塁のピンチを背負い、この日4打数2安打1打点と当たっていた1番打者・阿部葉太外野手(2年)を打席に迎えた。豊田圭史監督はここで申告敬遠を指示。満塁にして、3打数無安打だった奥村凌大内野手(2年)との勝負を選択した。しかし、奥村に左前へ弾き返され、急成長を遂げた武相ナインの快進撃は終わった。

 武相高OBの豊田監督は、岩手・富士大のコーチ、監督として山川穂高内野手(ソフトバンク)、外崎修汰内野手、佐藤龍生内野手(西武)、鈴木翔天投手(楽天)らを育て上げ、指揮官として富士大を北東北大学野球リーグ10季連続優勝に導いた名将だ。

 武相高は1964年から1968年までの5年間に4度、夏の甲子園出場を果たした古豪。1968年のエースだった故・島野修氏は、ドラフト1位で巨人に入団した。昨年まで55年間“聖地”から遠ざかっていたが、2020年8月に豊田監督が就任してからは、その名声を慕って入学する選手が増えた。特に今年の3年生の世代への期待は大きく、沖縄県金武町から入学した仲間球児朗内野手(3年)は「監督に誘っていただいて、入学後もずっと2024年がチャンスだと言われ続けてきました」と明かす。

 実際、今年の春季神奈川大会では、決勝で東海大相模高を9-8で下し42年ぶりに優勝。一気に夏の甲子園出場のムードが高まった。この日も、相手の横浜高・村田浩明監督は「豊田監督は武相高校を変えられて、今日もウチは“丸裸”にされていました。ウチの打者の打球がどこに飛ぶのか、どこに投げれば打ち取れるのかを、全て把握されていました」と脱帽した。

9回満塁策を悔やみ「ここぞというところで弱気になってしまった」

 試合終了後のミーティングではナインを前に、何度もタオルに顔を埋め、言葉を詰まらせた豊田監督。「勝てる試合でした。僕を信じてやってきてくれた3年生には、感謝しかありません。僕が記憶している限り(今年の春と夏で)2季連続で神奈川の準決勝に進んだことはこれまでなかった。歴史をつくってくれました」と言葉を絞り出した。

 来年も、力投した八木をはじめ有力なプレーヤーが残る。豊田監督は「あれだけの戦力の横浜高に対して、これだけのゲームができることを実証できましたし、実感もあります。今後、もうひとつレベルアップすべきは、僕自身かなと思います」と謙虚に述べた。

 9回の守りでの満塁策を振り返り「ここぞというところで弱気になってしまう。2本打っていた阿部くんを敬遠しましたが、奥村くんにも“1本も打っていない怖さ”があった。冷静に考えれば、阿部くん勝負だったかなとも思います」と悔やんだ。

 主将の仲宗根琉空内野手(3年)は「監督の言うことを信じてやってきて、春に優勝できましたし、よかったと思います」と笑顔を浮かべた。前出の沖縄出身の仲間は「神奈川は激戦区で苦しかったですが、このチームで甲子園に行きたかった。来年に期待することしかできません」と涙をぬぐった。武相高の甲子園復帰への“本気”の挑戦は、まだ始まったばかりだ。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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