巨人から声かからずも…熱心だった阪神「名前を挙げてくれ」 “強制練習”で好転した野球人生
田村勤氏は本田技研でいつしか「練習の虫」と言われるようになった
元阪神、オリックス左腕の田村勤氏は社会人野球・本田技研での1年目(1988年)の秋にサイドスローに転向した。加えて田代克業監督から「他の投手と一緒ではなく1人で走れ!」指令も出されて、半強制的に取り組んだところ、自身にも周囲にも変化が起きたという。「それは僕にとって、追い風でした」。社会人3年目(1990年)にはプロから注目されるようになり、阪神からドラフト4位で指名された。ついに少年時代からの夢であるプロ入りを果たしたのだ。
オーバースローをサイドスローに変えて、ピッチング練習以外は黙々と走り込む日々。田村氏は田代監督の指令通りにやり続けた。最初は「サイドにするのも嫌だったし、やらされる練習というのもちょっと……」という気持ちでスタートしたが、継続していくことで“世界”が変わってきたという。「3か月くらい経ったら、田代監督が声をかけてくれた。それから半年くらいしたら周りから“練習の虫”って言われるようになったんです」。
この頃のことを田村氏はこう振り返る。「1、2か月くらいやっているうちに、俺、ピッチングはちょっとだけで走っているだけじゃん。もっとボールに触りたいなってなったんです。それで寮に帰っても室内練習場があるので、ユニホームのままでバケツに入っているティーボールを下半身を使ったりして投げていた。夕飯は最後の方に食べて、風呂に入って、それから今度はウエート場で練習していた。走ることをやらされたことで他のことをしたくなったんです」。
自身でも変化を感じたという。「食事でも野菜とかをちゃんと食べたり、寮のご飯もよくかんで食べるとか。プロテインを飲んだりとか、どんどんどんどん自分を自分で育てたくなってきたんです」。田村氏は本田技研入り後、自室で先輩や後輩を出身地・静岡のお茶でもてなしていたところ「なんかジジくさいな」と「たむじい」のニックネームをつけられていたが、そこに加わった異名が「練習の虫」。社会人のチームメートも、その練習ぶりに一目置くようにもなったわけだ。
「『お前はまだやっているのか』ってよく言われました。当時、(ロッテ投手の)村田兆治さんがすごくストイックにやっているって話でしたけど『お前、村田さんみたいな感じになれそうやな』なんて言われるくらい。それからは野手の方からも『お前が投げたら絶対守ったるわ』とか『おい、今日は田村が投げるから打ってやろうぜ』って。そういう追い風が吹き出したんです」。サイドスローに磨きもかかり、力もつけていった。球速も140キロ台が出るようになった。
意識していたのは、もちろん夢のプロ入りだ。「当時、僕がターゲットにしていたのは角(盈男)さん(元巨人など)と永射(保)さん(元西武など)と清川(栄治)さん(元広島など)。この方々よりも球速があれば(プロが)引っ掛けてくれるんじゃないかと思って、スピードにこだわったというのはありましたね。(田代)監督も『スカウトとか知っている人もいるから、何とかねじこんでやるから』なんて言ってくれて……」。
1990年ドラフト会議で阪神から4位指名…プロ入りの夢をつかんだ
“やらされた練習”を続けているうちに、状況はプラス、プラスに好転していった。社会人3年目(1990年)は川崎製鉄千葉の補強選手として都市対抗に出場。「僕はもうプロしか頭になかったから、今までの練習を川鉄千葉でもやりました。走ったり、ウエートをやったりとかもね。そしたら青野監督が『お前はよく練習するなぁ、1回戦、先発で行かせるわ』と言ってくれたんです。これも(本田技研監督の)田代さんが言ってくれたんじゃないかと思いますけどね」。
1990年7月22日の都市対抗1回戦の大昭和製紙戦に先発した田村氏は好投して勝利投手になった。試合は6-5だった。2回戦の新日鉄広畑戦(7月26日)はリリーフで登板したが、川鉄千葉は6-8で敗れた。「1回戦はいいピッチングをしたんですけど、2回戦はやられましたね。(新日鉄広畑の)定詰(雅彦捕手、元ロッテ、阪神)に打たれたんじゃなかったかな」。それでもプロにはアピールできた。注目されるようになった。
父・甲子夫さんが大ファンだった巨人からは声がかからなかったものの、数球団がマーク。なかでも熱心に誘ってくれたのが阪神だった。「担当スカウトの今成(泰章)さんは駒沢大の先輩なんですよ。僕が高校の時も来ておられたんです。で、中継ぎで獲るからって言われていたんです」。そして、ついに夢がかなう日が来た。1990年11月24日のドラフト会議で田村氏は阪神から4位指名された。「あの日は本当に名前を挙げてくれ、との思いだけでした」。
大学、社会人と時間をかけて、子どもの頃からの目標を成し遂げた。「プロに行くとき(駒大の)太田(誠)監督に『1回来い』と言われて行ったら『お前はプロに行って何するんだ!』と言われた。『お金を稼ぎにいきます』と答えたら『わかっているじゃないか。頑張れ!』って。それで終わりでした」。
それから懐かしそうに笑いながらこんなことも明かした。「今成さんから『ウチに遊びに来い』って言われたので、息子さんにボクシングゲームを買って持っていったら、その場でブチ壊されました。ガチャガチャガチャ、ポンってね。その子がまさか、のちにプロに入るとは思いませんでしたけどね」。今成スカウトの次男で元日本ハム、阪神の今成亮太氏(現野球評論家)のことは「俺が持っていったおもちゃをブチ壊したヤツ」として強烈にインプットされているそうだ。
それもプロ入りをつかんだうれしい思い出関連のひとつだが、結果を残せなかった大学時代、崖っ縁からのサイドスロー転向での巻き返しと苦しい時期が長かった分、念願成就の喜びは大きかった。静岡・島田高の芝田耕吉監督、駒大・太田監督、本田技研・田代監督、ずっと見守ってくれた父・甲子夫さん、関わったすべての人に感謝して、田村氏は背番号36の阪神タイガースのユニホームに袖を通した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)