“松坂バッテリー”の癖発見も…声は「届いていませんでした」 伝説死闘から26年、新たな真実

PL学園戦に登板した当時横浜高の松坂大輔【写真提供:産経新聞社】
PL学園戦に登板した当時横浜高の松坂大輔【写真提供:産経新聞社】

PL学園のエースだった上重聡氏が1998年の横浜高との死闘を語った

 第106回全国高等学校野球選手権大会が7日に開幕する。毎年のようにドラマが生まれるなかで、1998年大会の準々決勝、PL学園-横浜高戦は延長17回に及ぶ激闘で、現在でも語り継がれる名勝負となっている。当時のPL学園のエースだったフリーアナウンサーの上重聡氏がFull-Countのインタビューに応じ、「打倒・松坂大輔」に燃えた夏を回顧した。

 8月19日、3回戦第3試合の佐賀学園戦で1失点完投勝利を挙げた上重氏は夕方に宿舎に戻り体を休めていると、慌ただしく準備を整えて飛び出していく野手陣の姿を見た。聞けば「今からPLの寮に帰って松坂対策の練習をしてくる」という。宿舎から寮まではバスで1時間弱。準決勝は翌20日の第1試合で午前4時起き。「“今から?”と驚きました」。

 春の選抜の準決勝で初対戦し2-3で惜敗した。スコアだけ見れば接戦も、松坂の投球の前に「完全に力負け。圧倒された」と自信を打ち砕かれた敗戦だった。その瞬間からPL学園の「打倒・松坂大輔」が始まった。深夜の緊急特訓ではメンバーから漏れた投手陣が10メートルほど手前から野手に向かってビュンビュンと投げ続けた。「松坂の速球に目を慣らすために」。再び宿舎に戻ったのは午前0時頃だったという。

 初回、先頭打者の2年生、田中一徳は遊ゴロに倒れたもののベンチに戻るや「先輩、いけますよ!」。上重氏は心の中で「お前、アウトやん」とツッコミつつも、2回に打線がつながった。松坂から4安打や犠打を絡めて3点を奪ったのだ。ここまでの3試合を1人で投げ抜き、1失点しかしていなかった松坂から3得点。「まさに有言実行で、仲間たちをカッコいいと思いました」。

 先制に成功した2回のPL学園の攻撃に“逸話”も存在する。三塁ランナーコーチにいた主将の平石洋介(現西武ヘッド兼打撃戦略コーチ)は、捕手の小山良男の構えの癖を見抜いた。直球なら「いけ」、変化球なら「狙え」と打者に指示していたことは後日談として大きな話題となっていた。

インタビューに応じるPL学園OBの上重聡さん【写真:小林靖】
インタビューに応じるPL学園OBの上重聡さん【写真:小林靖】

8回に正捕手が負傷…交代要員は公式戦初出場の2年生

「それがあって打てたわけではないと思います」

 上重氏は語る。癖を見抜いた平石が打者に伝えようとしていたのは事実だが「それは我々はいつも通りで、横浜高戦に限ってやっていたわけではありませんでした。そしてあの試合は、あれだけの大観衆で平石の声は打者にはっきりと届いていませんでした」。

 癖を見破ろうと相手を研究するのはPL学園では特別な手段ではない。しかも横浜高戦に限れば、大歓声にかき消されて伝達が困難な状況だったという。その上で松坂から快打を積み重ねて3点を奪ったのだ。

「松坂も話していましたが、あの試合の立ち上がりはよくなかった。朝も早くてエンジンがかかっていませんでした。そこに前夜の特訓の成果が重なったんだと思います。1度選抜で対戦したことで“免疫”もあったので」

 PL学園の先制で試合は動き出し、シーソーゲームの展開に。前日に127球を投げていた上重氏は7回から登板。だが、5-4で迎えた8回にハプニングに襲われた。2死二塁から中前へ同点打を浴びたのだが、その際に中堅手からの本塁送球がイレギュラーバウンドし、正捕手の石橋勇一郎の顔面に直撃。退場を余儀なくされた。急遽、交代出場したのが2年生の田中雅彦。公式戦初出場だった。

「田中はキャッチングが上手くて、私はいつもブルペンでの投球練習では田中とやっていました。ですので、コンビネーションは大丈夫だと思いましたし、いかんせん初出場なので相手は田中のデータがない。これは面白いなと。『サインはお前が出せ』と話して、逆に楽しめました。怪我の功名といいますか……」

 大一番で誕生した“急造バッテリー”だったが、ピンチをチャンスに変えた。試合は5-5のまま延長戦に突入。春の選抜では松坂大輔、横浜高に力の差を痛感させられ、プライドを崩されるような敗戦を喫したPL学園だったが、その4か月後に同じ甲子園でがっぷり四つの熱戦を展開した。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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