ドラ1入団も「いつクビになっても…」 訴えた右肘の痛み、古木克明が抱いた後悔「逃げていた」

横浜(現DeNA)でプレーした古木克明氏【写真:湯浅大】
横浜(現DeNA)でプレーした古木克明氏【写真:湯浅大】

古木克明氏は“マシンガン全盛”の横浜に入団した

 1998年ドラフト1位で横浜(現DeNA)に入団した古木克明氏だったが、当時はマシンガン打線で球界を席巻していたチームとあって高いレベルと厚い選手層に苦しんだ。入団当初は「早く終わってほしい」「いつクビになってもおかしくない」とネガティブ思考の日々だったという。

「キャンプは終盤にいくにつれて緊張が増して怖かったです。ミスはできないし、その場にいたくなかったです。投内連携、バントシフトは嫌で嫌で仕方なかった。ついていけなかったです」

 ボール回しでは三塁に入るが、捕手の谷繁元信からの送球が衝撃だった。「捕ってから握り変えるまでの動作が早すぎて分からないんです。捕ったと思ったらボールが自分のすぐ近くまで来ている。“いつ投げた?”みたいな。中継プレーではショートの石井琢朗さんが怒っている感じで、すごい球を投げてくる。鮮明に覚えています」。一塁に駒田徳広、二塁はボビー・ローズ(旧登録名:ロバート・ローズ)、三塁には進藤達哉といった猛者のなかに、高卒ルーキーが入るのは酷な環境だったのかもしれない。

 ドラフト1位とあって古木氏への注目度も高かったが「それよりもチーム内のプレッシャーの方が大きかった。自分のことに必死で……。外野手が羨ましく思えました。早く1日が終わってほしいと、そんなことばかり考えていました」。持ち味の打撃でも豊田大谷高2年時の夏以降に崩した打撃フォームが戻らず「ダメダメでした。木のバットにも慣れるのに1年くらいかかりました」。

 ファームでは結果を出していたが、出場機会の少ない1軍では成績を残せない。プロ初安打が生まれるまでは4年を要し、2002年9月4日の中日戦でようやく快音を響かせた。「焦りしかなかった。ただでさえ守備が下手くそだし、結果も残せていない。3年目くらいから、いつクビになってもおかしくないと思っていました」。

22本塁打ながら37打点「チャンスには弱かった」

 危機感と隣り合わせでのプレーが続いていたが、その2002年は34試合に出場し打率.320、9本塁打、22打点を挙げた。シーズン終盤の活躍もあり、翌2003年は「6番・三塁」で開幕スタメンをつかむと、125試合の出場で22本塁打をマークした。だが、古木氏の口からは意外な言葉がこぼれてきた。

「あの年は終わっていましたよ。マークされるようになって、途中から打てなくなって。自分から逃げてしまっていた」

 キャリアハイとなった22本塁打を放ちながらも、シーズンを通じての打点は37。本塁打数の割には高い方とはいえなかった。「ソロばかりでした。チャンスには弱かったんです。だからランナーいるときの自分の打席では、球場の雰囲気も『古木か……』という感じになっていました」。

 徐々に代打での起用が増えだすと、成績は上がりにくくなり打率.208、131三振を喫した。結果が出なくなり始めてからは、首脳陣に右肘の痛みを訴えるようになっていたという。

「痛みはありましたが、バットは振れたし、大きな怪我というほどではなかった。頑張ればいいのに、頑張れる自分なのに、そこで我慢をしなかった。我慢をすれば試合に出られたのに。実力がないのに逃げてしまった。試合にでていればチャンスはあったはずだったけど、また来年活躍すればいいという甘えがあった。すごく反省しています」

 入団後は危機感を持ってプレーしていたはずが、いつのまにか安心が生まれていた。欠けてしまったがむしゃらさ。「後々にその“ツケ”が回ってきたのかなと思います」。2003年の22本塁打、37打点は11年間のプロ生活でともに自己最多。今でも悔やまれるキャリアハイだった。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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