阪神4番が耐え続けた激痛…周囲に隠しながら「しんどかった」 “怪我モード”の野球人生
濱中治氏は小3で父が監督のチームに入部…小6では和歌山・田辺市で負け知らず
滞空時間の長いホームラン、“うねり打法”を駆使して飛び出す豪快な一発が代名詞だったのが濱中治氏だ。阪神タイガースの第85代4番打者。「濱ちゃん」の愛称でファンから親しまれ、人気も博した。その一方で絶頂期に右肩脱臼に見舞われるなど、本来の力をすべて発揮できなかった不運な“アーチスト”でもある。まさに激動のプロ野球選手生活だったが、実は右肩痛とは少年時代からの付き合い。1990年の小学6年時にはすでに激痛と闘っていたという。
和歌山・田辺市出身の濱中氏は、田辺市立芳養(はや)小学校3年の時に学校の軟式野球部「はやクラブ」に入った。「もともと野球が好きでやり始めたのではなく、父がそのチームの監督で“いずれ入らないといけない”ってなっていた。僕は1年の時から水泳をやっていて、そっちにハマっていたんですけど、3年生になって“もう入れ”って号令がかかったんです」。そこから小学6年までは「夏は野球、冬は水泳という形でした」。
ポジションは投手か遊撃手。「投げることとかはまぁまぁ得意な方だったのでね」。練習はグラウンドだけではない。帰宅してからも続いた。「始めた頃は家のところにネットを張って練習していたんですけど、小4くらいからは雨でもできるように小屋の中でやっていました。ちょうどそういう小屋があったんですよ。そこでティー打撃を毎日。これは高校3年まで。ほとんど父が練習に付き合ってくれました」。
父・憲治さんとの毎日の練習で濱中氏の技量もアップしていった。小6の時にはエースで4番。「大会が9つあったんですけど、全部優勝しました。県外にいけば強いチームがいて、負けることもあったんですけど、地元の田辺市内の大会では負け知らずでした」。その頃に右肩に痛みを感じ始めたという。「昔は2試合続けて投げたりもありましたからね。まだ体ができあがっていないのに、無理して投げてしまったというのはあると思います」。
医師に言われた少年時代の影響「ちゃんと治しておけば、というのもね…」
時には日常生活にも影響するくらいの激痛の時もあったそうだ。だが、それでもこらえた。「痛かったですけど、自分もピッチャーをやっていて楽しかったし、あの頃はやるのが普通だと思っていた。監督が自分の父だから、よけいに痛いと言えずに、というのもあったかもわからないですけど……。今と違って大会も頻繁にあったし、全部優勝がかかっていましたからね。負けていたら違っていたかもしれませんけどね」。
1度だけ痛みに耐えられず緊急降板した時があったという。「でも、その時もチームは勝ちましたし、休んだらちょっとマシにはなったので、次の試合には投げていました。そんなに痛くない日もあれば、痛い日もあるんですよ。そういうのと付き合いながらやっていた感じです。我慢しながらの登板が続きましたね。そりゃあ、しんどかったですよ。でも、それよりも勝つことの喜びの方が強かったのかもしれません。やらないといけないという責任感もありました」。
痛いながらも周囲に悟られないように投げられたし、相手打線を抑えることもできたし、打撃にも問題なしだったことで、さらに無理を重ねた。濱中氏にとって小6で発症した右肩痛は、その先の中学でも高校でも、それがあるのが当たり前になっていたという。1996年ドラフト3位で和歌山・南部高から阪神入りした時もしかり。そんな中で表面上は不安をほとんど感じさせないプレーをずっと見せていたのだが……。
濱中氏はプロ7年目の2003年以降、右肩脱臼などの故障に苦しんだ。そこから野球人生は“怪我モード”に入っていった。「小学6年の時に右肩を痛めた影響というのがプロに入ってもあったんだろうなというのは、病院の先生に言われました。あの時、ちゃんと治しておけば、というのもね……」。これも運命だったのだろうか。右肩痛と闘いながらも結果を出して充実していた小6時代を思い出しながら、何とも言えない表情で話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)