日本行き浮上も…NPBを「知らなかった」 最強助っ人が困惑、謎だったGMと代理人の会話

阪神時代のセシル・フィルダー氏【写真提供:産経新聞社】
阪神時代のセシル・フィルダー氏【写真提供:産経新聞社】

阪神で38本塁打…来日前は日本にリーグがあることも知らず

 セシル・フィルダー氏は1989年に阪神でプレーし、106試合で38本塁打を放ちながらも1年で日本を去った。メジャーでは1470試合で1313安打、319本塁打を誇る元助っ人が米ポッドキャスト番組「The Brett Boone Podcast」に出演。日本でのプレーを経て米国でも活躍したが、来日前は「向こうにリーグがあることさえ知らなかった」と明かした。

 フィルダー氏はブルージェイズで1985年にメジャーデビューも、出場機会が得られず、結局日本行きを選択。しかし、当初は日本への関心は薄く、「代理人とブルージェイズが日本について話し始めた時、彼らが一体何を話しているかあまりわかっていなかった。当時、25歳だか24歳だったから、彼らが話をし始めたときに、全く見当がつかなかった」と振り返った。

 フィルダー氏が来日した当初は、日本人がメジャーで大活躍していたというわけでもなく、メジャーリーガーにとってNPBは未知の場所だった。「サダハル・オウとハンク・アーロンのHRコンテストを見たから、何かが向こうで起きているとは分かっていた」。1974年に行われた日米野球で、日本でも野球が盛り上がっていることについては知っていたという。

 同番組の司会はイチロー氏とともにプレーしたブレット・ブーン氏が務めており、イチロー氏の話題となるとフィルダー氏は「私が初めて日本に行ったとき、イチローは投手だったんだ。多くの人はそのことについて知らなかったが。私の本拠地、オオサカにある甲子園球場で高校の大会があって、日本中の高校チームがそこに来て1か月ほど試合をする。なのでその月、我々は敵地で試合をするのが常だった。それでイチローは投手だった」と回想。「なので彼は(二刀流が)できたもう1人の選手だったかもしれないね」と話した。

 1989年に阪神では38本塁打をマーク。終盤は怪我もあり、1年で退団となったものの、1990年からはメジャーに戻りタイガースで2年連続の本塁打王。日本でのプレーをきっかけに大きく羽ばたいた。

(Full-Count編集部)

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