横浜高進学は「怖かった」 “想定外”だった監督辞任…余儀なくされた突然の進路変更

元DeNA・石川雄洋氏【写真:湯浅大】
元DeNA・石川雄洋氏【写真:湯浅大】

元DeNAの石川雄洋氏は横浜高には“想定外”の進学だった

 横浜、DeNAとベイスターズ一筋で16年間プレーした石川雄洋氏は、プロ入り前は横浜高で主に内野手として活躍した。当初は別の高校への進学が内定していたが、急転の横浜高入りだったという。3年夏の甲子園では試合中に「今なら完全に交代だった」という怪我を負うも強行出場。プロ入り後も献身的なプレーと周囲を惹きつける人間力で人気を博した石川氏がFull-Countのインタビューに応じ、現役時代を振り返った。

「本当は山梨の日本航空高校に行くことが決まっていたんです。親父と野球部の監督が同級生で、自分の練習を見にきてくれて、特待生でとってもらえるという話になったんです」

 静岡裾野リトルシニアからの進学が内定していたが、年が変わり卒業間近の1月になって「その監督さんが辞めることになってしまったんです」。石川氏の特待生の話が消滅したわけではなかったが、自分をスカウトした監督が不在という入部後の“肩身の狭さ”もあり、急遽、別の進路を探すことになった。

 裾野シニアの指導者が、過去にOBが入学した日大三高(西東京)、桐蔭学園、横浜高(ともに神奈川)、樹徳高(群馬)に声をかけたところ「たまたま横浜だけOKが出た。他は全部断られました」。後に甲子園に出場し、プロ入りのきっかけともなる横浜高進学が運命的に決まった。

「僕は静岡の駿東郡出身の郡民なので、あまり都会には出たくなかったんです。怖かったので。でも結果として運が良かったと思います」

高3夏の甲子園で試合中に負傷「脳震盪みたいのもあった」

 1学年20人程度。同学年には涌井秀章(中日)もいた。「有名な高校だからビビりながら入ったけど、レギュラーは絶対に無理という感じでもなかったです」。

 2年だった2003年の選抜では1学年上でロッテやヤクルトでプレーした成瀬善久を擁し、準優勝。迎えた3年の夏、2004年にも甲子園に出場。石川氏は京都外大西高との2回戦でアクシデントに見舞われた。

 三塁打を放ち、ヘッドスライディングした際に「今でいうコリジョンみたいな。ベース上にいた三塁手の膝がもろに首に入った」。そのまま仰向けに倒れ込み、担架で医務室へ。運ばれているときのことは「記憶がない」と明かした。

「当時の甲子園には5分か10分かわからないですが、それ以上は中断できないというルールがあったみたいですが、僕は20分くらい治療したそうです。小倉(清一郎)部長が『コイツは出られるから大丈夫』と運営の人たちに言っていたみたいで。今なら完全に交代だったと思います」

 グラウンドに戻った石川氏は三塁手としてプレーを続行。延長10回にはダイビングキャッチを披露するなど同11回までもつれた末に1-0での勝利に貢献した。試合後に病院で検査を受け「頚椎の第2か第3の捻挫でした。すごく痛かったというわけでなく、右手がずっと痺れているような感じでした。映像を見たら(治療後に)動いているけど、あんま覚えていない。脳震とうみたいなのもあったんだと思います。昔のことすぎて覚えていないだけかもしれないですけど(笑)」。

 3回戦の明徳義塾戦(高知)でも「痺れは残っていた」という中でプレーした。準々決勝で敗退したが大会を通じて14打数10安打の成績を残した。急転入学となった横浜高で出場した甲子園で活躍。「全然意識していなかった」というプロ入りへの足掛かりとした。

(湯浅大 / Dai Yuasa)

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