「僕は来年、命ないんです」 優勝決定日に大怪我…傷心の主砲を救った“恩人”の言葉
山崎武司氏はリーグ優勝決定試合で骨折…祝勝会場で出会った“恩人”
1999年9月30日、星野仙一監督率いる中日の11年ぶりセ・リーグ優勝が決まった。祝勝会は赤坂プリンスホテルで行われたが、Vメンバーの山崎武司氏(野球評論家)は歓喜のビールかけを見ているだけだった。その日のヤクルト戦(神宮)の一塁守備で、左手首を骨折したからだ。日本シリーズ出場も無理。大はしゃぎするはずが、悔しい思いでいっぱいだったが、そんな時に今も忘れられない出来事があったという。
優勝決定試合のヤクルト戦で、一塁守備中に起きた悪夢。バント処理した中日・山本昌投手の一塁送球を捕りにいった山崎氏のグラブ付近に打者走者で全力疾走のヤクルト・真中満外野手がぶつかってしまった。「真中と当たった瞬間“あ、折れた”とわかった」という。「やべー、これは駄目だ。俺、日本シリーズに出れねぇ」。すぐにそう思ったそうだが「トレーナーにはしきりに『これ治るかな。日本シリーズに出られますかね』と言っていたのも覚えている」と話した。
病院での診断結果は予想通り左手首骨折。「日本シリーズに出るのは夢だったから、そこに出られないというのは、やっぱり凄くショックだった」。応急処置を受けてホテルのプールで行われた祝勝会には駆けつけたが、麻酔が効いていてフラフラ状態。ビールかけも参加できず、大はしゃぎするナインの姿を見るしかなかった。その時、会場にいた中日ファンで歌手の池田貴族さんに声をかけられたという。
「ビールかけをボーッと見ていたら『おめでとうございます』と声をかけてくれた。『ありがとうございます』と答えて、それから『いやぁ、俺、日本シリーズに出られないし、目茶苦茶悔しい。ホントにやっていられないですよ』なんて話をしたら、貴族さんが『いいじゃないですか。また来年頑張ればいいじゃないですか』って。まぁ、それはみんな言いますよね。だけど、その後に『僕は、来年もう死んでいるんですよ。命ないんですよ。病気でね』って……」。
池田貴族さんはその時、すでに末期ガンで余命宣告を受けていた。「貴族さんに『やり直せるんだから頑張ってくださいよ』と言われて、それまでしょげていたんだけど、頑張らなきゃって思った。命と引き換えだったらどっちだって考えたら、そりゃあ俺にはチャンスがまだあるわけだからってね。貴族さんに救われたというのはあったですね。それからすごく仲良くもなって交流も深めたんです」。
1999年に36歳で死去…池田貴族さんとの出会いは「人生においてひとつのポイント」
10月23日に敵地・福岡ドームで開幕したダイエーとの日本シリーズを全試合、山崎氏はベンチ裏で見た。「福岡にも(星野)監督に『ついてこい』と言われて、行きました。1勝4敗で負けたんだけど、高校(愛工大名電)の先輩の(当時ダイエーエースの)工藤(公康)さんが『山崎がいなかったから』って気を使って言ってくれたんです。それも何かちょっと浮かばれたというか、自分のなかではスッとしたところがありましたけどね」。
オフのラスベガスV旅行には行かなかった。「俺ってチームに貢献したかなってすごく思って、V旅行に行って浮かれている場合じゃないと考えた。やっぱりやり返したいという思いがあったんでね。ただ、嫁さんをご褒美でV旅行に連れていきたいと気持ちはあったので『行きたい』と言ったら行こうと思ったけど、嫁も『私も悔しいシーズンだったから行きたくない』って。それで辞退しました。その代わり、家族としては旅行に行こうやってハワイに行ったかな」。
もう山崎氏はすべてにおいて前向きになっていた。骨折した左手首は重傷で、野球生命にも影響しかねないものだったが、懸命のリハビリなどで立ち直っていった。それもこれも、祝勝会場で聞いた池田貴族さんの言葉があってのことでもあった。「あの時、貴族さんに会ったというのは自分の人生においてひとつのポイントになっていますよね」としみじみと話した。
1999年12月25日、池田貴族さんは名古屋市内の病院で帰らぬ人となった。36歳の若さだった。山崎氏はお見舞いにも行っていた。「最後の最後の時も病院に行った。それまで寝た切りだった人が、俺が行ったら体を上げて、お母さんがびっくりされていましたけどね。だけど……」。毎年、命日には「お供えを送っている」という。山崎氏にとって、巻き返す力をもらった恩人。苦しい時には思い出したし、今も忘れることはない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)