注射、痛み止めも…「ボロボロだった」 告白できず悪化、野口茂樹氏の“最後の夏”

元中日・野口茂樹氏…3年春の愛媛大会準決勝19K、決勝は14Kで優勝
元中日エースの野口茂樹氏は1992年、愛媛・丹原高3年の春の愛媛大会で強烈投球を見せつけた。3-0で完封した準決勝の八幡浜戦では9人連続を含む19奪三振をマーク。決勝の新居浜東戦も14奪三振で完投し、チームを優勝に導いた。すさまじいばかりのドクターKぶりにプロスカウトもさらに注目するようになったが、そんな左腕に“悪夢”が待っていた。春の選抜出場の松山商とのチャレンジマッチで「肘が飛びました」……。
2年秋の愛媛大会敗戦から、一冬を越して野口氏はさらに進化を遂げた。3年春の愛媛大会では140キロを超えるストレート、切れ味抜群の縦に落ちるカーブに磨きをかけ、三振を量産した。甲子園には直結しない大会ながらも丹原優勝の立役者になった。圧巻だったのは19三振を奪った準決勝・八幡浜戦。「打たれたヒットもセカンド内野安打1本だけ。それは覚えています。その時は本当にすべてがよかったと思います」と話した。
だが、すぐに表情を曇らせた。「その後です。4月19日のチャレンジマッチで肘が飛んだので……」。春の選抜に出場した松山商と春の愛媛大会優勝の丹原が激突する一戦に野口氏は先発したが、2回途中に肘の痛みを訴えて降板した。「球場に行く前からヤバかったんです。でも、投げられませんって言えなかった。で、投げたんですけど、やっぱりドーンと、あ、駄目だな、完全に飛んだなって感じで。もう痛くて投げられなかったです」。
一気に状況が変わった。そこからは治療の日々だった。「いろんなところに行きました。手のひらをかざして熱で治療とか、そういうのもやりました」。目標の甲子園のチャンスは3年夏しか残っていない。どうしても、そこには間に合わせたい一心だった。しかし……。悪夢の4・19から、ほとんど投げることができないまま夏の愛媛大会が始まった。野口氏は完全に治っていない状態で本番に臨むことを決意した。
ぶっつけで臨んだ最後の夏…松山商との準決勝は「ボロボロだった」
やはり最後の夏を投げずに終わるのは嫌だった。「投げられるというか、ホントに夏の大会に入って、ぶっつけでしたけどね」。そんなエースをナインもカバーした。丹原は1回戦・西条農に12-5で勝利したが、野口氏はその試合に投げていない。「同学年(投手)の渡辺が頑張ってくれました」。2回戦は三島に8-0。「この時に確か1イニングだけ投げたと思います。それで、その次に先発したんです」。
3回戦は好投手・今井圭吾(元日本ハム)を擁する伊予が相手だった。強敵との投げ合い。野口氏はそれこそ決死の覚悟でマウンドに上がり、気力で投げ切って勝利をつかんだ。だが、もうそこですべてを出し尽くしていたのかもしれない。準々決勝は打線が奮起して宇和島南に8回コールドの9-2で勝ったが「そこら辺は記憶がないですね」。覚えているのは準決勝の松山商戦で「ボロボロだったこと」という。
春に左肘を痛めた時の相手でもある因縁の松山商戦だったが、野口氏は「肘が戻ってこなかった。筋肉痛プラス痛み。もう制御できないくらいやばかった」と唇を噛む。序盤から失点する苦しいピッチングで途中降板。2-9で敗れ、甲子園の夢は絶たれた。高校野球が終わった。「伊予戦の時は休み肘みたいなのも、たぶんあったんじゃないですかねぇ。痛み止めをのんで、注射も打って投げたと思うし……。松山商戦ではそういう反動も来たという感じでしたね」。
高校生活ラストマウンドについて野口氏は「ただ投げただけです」という。本来の状態に程遠く不完全燃焼の夏だった。丹原でプロ注目の投手に大きく成長しながら、3年春に左肘を痛めたのは大誤算だったし、その野球人生における最大の敵ともいえる怪我との闘いはこの時から始まった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
