トンネルにバンザイ「12球団で一番下手」 ドラフト外入団も…呆れられた守備力「本当にプロ?」

元広島・長嶋清幸氏、2年目は開幕1軍…代打で存在感
元広島外野手の長嶋清幸氏はプロ2年目の1981年、開幕1軍入りを果たした。私立静岡県自動車工(現・静岡北)からドラフト外入団。170センチと小柄ながらパンチ力のある打撃は19歳のその頃から一目置かれ、代打要員として起用された。それは名将・古葉竹識監督から課せられた“ノルマ”との闘いでもあったという。一方で守備は低評価。のちにはゴールデン・グラブ賞を4度受賞したが「あの頃は『アイツは本当にプロ野球選手か?』と言われていた」と話した。
長嶋氏は高卒1年目の1980年5月に1軍昇格。前半最終戦の7月17日のヤクルト戦(草薙)では代打でプロ初本塁打を尾花高夫投手から放った。後半戦でのさらなる躍進も期待されたが、球宴休み中の守備練習でフェンスに激突した際に左足首を骨折して離脱となった。「手術してボルトを入れて、固定して半年くらいかかった。左はずっとつっていたから、そっちの足だけ細くなってショックだったなぁ」。左右のバランスが悪くなって走り方もおかしくなったそうだ。
それでも1年目の打力を高く評価する首脳陣の期待は大きかった。「古葉さんに言われたもん。『開幕までに治して1軍に来い!』って」。まだ19歳。それもリハビリ中にもかかわらず、1軍の将がそう声をかけるほど、底知れぬ魅力があったということだろう。「試合に出るようになったのは(翌1981年の)オープン戦の途中くらいだったと思う」。そこから出遅れを取り戻し、開幕1軍切符を本当につかんだ。
4月7日の開幕阪神戦(広島)から代打で出場。その時は凡退したが4月10日の中日戦(ナゴヤ球場)ではシーズン初安打を記録。左の代打として使われたが、これは古葉監督に課せられたノルマをクリアしてのことだったという。「あの時のカープは代打(要員の選手)には必ず4打席のチャンスを与える。その間に結果を出さなかったら2軍の調子のいい選手と交代とか、そんな感じだったのでね」。
加えて長嶋氏には古葉監督から別のノルマもあった。「あの頃って(広島)市民球場で(昼に2軍、夜に1軍が試合する)親子ゲームをしていたんだけど、俺は2軍戦から出されるわけ。で、古葉さんに必ず言われた。『お前、最低2本以上打たんかったら、そのまま2軍におれ、1軍にこんでええから』って。いっつもそうやって脅されていた」。そして実際に打ったという。「親子ゲーム(の2軍戦)だけで1年、2軍にいる選手より打っていたと思う」。
その“古葉指令”にも応えていたわけだが「いや、1軍の選手だったら、格の違いじゃないけど、そういうふうになるんですよ。だから1軍の壁は高いというのが、よくわかったっていうか……」と長嶋氏は言う。打撃に関してはもはや若手の中では抜けた存在になりつつあったようだ。しかしながら、出番はほとんどが代打。これは打撃力とは正反対に守備力が、まだまだ難ありの状況だったからだ。
猛練習で守備上達…4年目にダイヤモンドグラブ賞
「高校の時は(外野を)ただ守っていただけ。少々エラーしようが、暴投しようが何もなかったけど、プロはそういうわけにはいかない。あの頃の俺は12球団で一番下手な外野手だったと思う。だって投げれば暴投、捕ればトンネル、前に出たらバンザイ、ホント、みんなが目をつぶった。『アイツは本当にプロ野球選手か?』ってね」。当然、みっちり鍛えられた。寺岡孝守備コーチや大下剛史守備コーチから徹底指導を受けたという。
「大下さんには『守備はバッティングと違う。数やれば人並みになる。人並みになればお前のバッティングならレギュラーをとれる。だから人並みになるように頑張れ』と言われた。それを聞いて“人並みって普通ってことだよなぁ。普通の守備なら俺にもできるのかなぁ”と思って、ちょっと希望が出た。で、人並みにになるためにホント、血ヘドを吐くくらいの練習をした。人の3倍はやったかな。ホントに下手だったからね」
その積み重ねで、実際に守備力は年々アップした。2年目(1981年)は36試合に出場し、守備に就いたのは途中から左翼に入った6月21日のヤクルト戦(神宮)と、偵察メンバーの山根和夫投手に代わり、6番左翼で出場した8月16日の中日戦(ナゴヤ球場)の2試合だけだったが、3年目(1982年)は79試合に出て、40試合にスタメン出場。4年目(1983年)にはダイヤモンドグラブ賞(当時の呼称、現在のゴールデン・グラブ賞)を初受賞するほどになった。
「いつだったかの平和台球場の巨人戦で途中からライトを守った。バッターは河埜(和正)さん。右中間に打つのがめっちゃうまい人で何か来そうだなぁと思っていたら、ホントに来た。打った瞬間に自分の頭の中で着地点を判断して、そこまで全力で走った。で、パッと見たらボールがそこにあって捕った。ベンチに戻ると『超ファインプレーや、あんなん捕れるやつおらへんぞ』って言われた。初めて守備に自信がついたね」。それも猛練習の成果だったのは言うまでもない。
「俺が守備で一番大切に思っていたのは(打者の)インパクトのところ、そこでいかに動けるか。その一歩目にすごい集中した。自分が目測を誤ってミスしてもそれは寺岡さんも承認してくれていたしね。守っているときは常に足踏み、手を組んだりとかはしたことがない。ピッチャーがモーションに入る時に、かかとをついたこともない。常に爪先しかないんでね」。12球団で一番下手な外野手からの進化。長嶋氏の守備力向上は練習で変われることを証明した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)