阪神移籍で悟った限界「もう終わりだな」 引退を決意した“20m”、抱え続けた異変

広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】
広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】

長嶋清幸氏、阪神では代打中心…最後は守れず引退決断

 日本球界で初めて背番号0をつけた長嶋清幸氏は1997年シーズン限りで現役を引退した。広島、中日、ロッテを経て1994年から所属した阪神で18年間に及んだプロ選手生活に幕を降ろした。長年、怪我との闘いも繰り広げながらプレーを続けてきたが、最後は肩の状態がどうにもならなかったという。「打って、走って、守る。それができなかったら野球選手じゃないなって常に思っていたのでね」。走攻守3拍子にこだわってケジメをつけた。

 長嶋氏は1993年オフにロッテから金銭トレードで阪神に移籍した。広島時代などと同様に背番号0をつけ、代打稼業が中心ながら、移籍1年目の1994年は70試合に出場して、113打数35安打の打率.310、4本塁打、16打点。前年(1993年)のロッテでの成績(40試合、68打数11安打、打率.162、1本塁打、5打点)をすべて上回った。阪神では当時、代打に回っていた真弓明信外野手に「お世話になったなぁ」と口にした。

「真弓さんを見て、学んだ。口数の少ない人なんだけど、話はしてくれた。手取り足取りとかはないから、その言葉の中で、やり方とか、雰囲気とか、考え方を自分なりに理解して取り入れていくというか……。真弓さんが代打の切り札で、俺は突破口を開く役割が多かった。監督が中村(勝広)さんの時は代打で出る順番も決まっていたしね」。帰ってきたセ・リーグの野球で精いっぱい、力を発揮した。

 シーズン中盤からは時折、スタメン起用もあり、8月10日の広島戦(広島)では「3番・右翼」で出て、2本塁打を含む3安打2打点と活躍した。「でも、もう体が持たなかったよね。カメ(亀山努外野手)とか、あそこら辺が怪我をした時に急きょスタメンで行くと1日目はピンピンだからいい。2日目は体がバリバリなんだけど、汗をかいたら何とかなる。それが3日目になると、体が動かないし、もう無理、無理、無理って感じだった」。

 それ以降、状態は上向かなかった。阪神移籍2年目(1995年)は67試合で74打数18安打の打率.243、0本塁打、4打点。同3年目(1996年)は39試合、34打数7安打、打率.206、1本塁打、5打点。その間に阪神監督は代行の時期を経て、長嶋氏が子どもの頃に憧れた藤田平氏が務めたが、結果を出せなかった。「どっちかというと俺は嫌われていた方じゃないかな」と苦笑した。

 結果的に1996年7月17日の広島戦(甲子園)で山内泰幸投手から放った代打アーチがプロ通算107号の現役ラスト本塁打になった。「カープの後援会とかのゴルフコンペとかで何でか知らないけど、山内とよく一緒に回るんだけど、そんな話は1回もしたことがなかったなぁ」。その時はそれが最後の一発になるとは思ってもいなかったはずだ。しかし、この後、コンディションはさらに悪化していった。

 それは阪神4年目、1997年の自主トレの時から感じていたという。「もう肩がおかしくなっちゃって、ボールを20メートルも投げられなくなった。あの自分の姿を見た時に“もう俺は終わりだな”って思った。まだ多少打つことも、走ることもできるかもしれないけど、この肩では駄目。もうスタメンで行けと言われてもいけないし、どうしようもないなと……」。その年から1985年の阪神日本一監督の吉田義男氏が指揮官に復帰したが、長嶋氏は戦力になれなかった。

 1997年は4月下旬に1軍昇格して5試合、代打で出場したが、5打数無安打2三振で2軍落ち。そのまま時が流れ、夏には引退を決意したという。「広島でやったせいがあるのかもしれないけど、打って、走って、守れる。それができなかったら野球選手じゃないと常に思っていた。やっぱり、肩がね。守れなくなったのが一番つらかった」。自身の気持ちに踏ん切りをつけ、阪神球団に連絡を入れたそうだ。

思いがけぬ引退試合、コーチ就任…後に知った恩人の気遣い

「そしたら、向こうも俺に用事があったっていうんだよね。『いいところで電話がかかってきた。こっちもちょっとお前に話があったんだ』って。で、行ったら同じことだった」。選手生活にピリオドを打つことが決まり、9月15日に引退を正式に表明した。シーズン最終戦の10月12日の横浜戦(甲子園)、9回裏の代打出場が現役ラスト打席になった。当時を思い出しながら、長嶋氏は感慨深げにこう話す。

「阪神に4年しかいなかった俺に引退試合をやってくれるというから“えーっ、なんで”ってまず思ったんだよね。それだけじゃなくて『コーチとしてもオファーするけど、どうだ、やる気あるか?』と聞かれて、それもまた“えーっ?”みたいな話で“何が起こっちゃったんだろう、ありがたいな”って思った」。長嶋氏は1998年から2003年まで阪神でコーチを務めたが、そこまで優遇されたことを喜びながら謎でもあったという。

 その“答え”はだいぶ後になって、1997年当時の阪神球団常務取締役で、2001年からは球団社長も務めた野崎勝義氏に聞いたと明かす。「野崎さんが(2007年に)球団を辞められた後、星野(仙一)さんのパーティーで会って、その時の話を知った。『あれはね、広島の(先代オーナーの)松田耕平さんに“長嶋って阪神におるやろ、すごくかわいがっていたんや。何とかちゃんとさせてあげたいから、悪いけど面倒見てくれないか”と頼まれたんだよ』って」。

 ようやく真相がわかり、長嶋氏は「そうだよなぁ、そんなことがなかったら(阪神に)残れるわけないもんなぁ」と感謝の思いでいっぱいになった。2002年に亡くなった先代オーナーの顔が思い浮かんだ。「マメ、マメって(愛称で)呼んでくれて……。カープの時に北海道遠征で俺、ユニホームを忘れたことがあったんだけど、当日の飛行機で来られたオーナーが持ってきてくれたこともあったんですよ」。

 その時の笑顔も忘れられないという。「『ええかげんにせーよ。お前くらいだろ。ワシにユニホームを持って来させるのは。今日打たんかったら、ただじゃおかんぞ』なんて言われてね。『すみませーん』と言って、ホームランを打ったのも覚えているなぁ」。記憶をたどりながら、改めてカープでプロ生活を始めて本当によかったと思ったのは言うまでもない。

 1980年から1997年までの18年間の現役生活で通算1477試合、1091安打、打率.271、107本塁打、448打点、94盗塁。ゴールデン・グラブ賞も4度受賞し、1984年の日本シリーズではMVPに輝いた。勝負強い打撃は数字以上のインパクトを残した。「この身長(170センチ)で、この体でね。俺、引退した時、涙が出なかった。引退式で涙が出る人は悔いが残っている人と思う。俺は、悔いはなかった。まぁ、年とってからの怪我はきつかったけどね」。

 打撃でも守りでも走塁でも、それこそ“生きるか、死ぬかの闘い”をずっと繰り広げてきた。常に全力で駆け抜けてきた。体は小さくても大きく見える。打席に入れば、何かをやりそうな空気を漂わせる。ここぞの場面では、燃えたぎるものをフルに放出して、他球団を震え上がらせた。日本球界初の「背番号0」だけではなく「勝負師」も代名詞。現役選手時代を振り返り、長嶋氏は「やれることはすべてやった」と言ってうなずいた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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