解禁イヤーに「まだ出せない」 ドラフト上位の自信も…初耳だった“不可解ルール”に唖然

元ロッテ・服部泰卓氏【写真:尾辻剛】
元ロッテ・服部泰卓氏【写真:尾辻剛】

元ロッテ・服部泰卓氏、トヨタ自動車2年目は主戦に

 ロッテで2013年に51試合登板するなど8年間のプロ野球生活を送った服部泰卓氏は、大学時代に明確にプロを意識した。東都大学野球リーグの駒大では、ラストイヤーとなった4年秋には4完封を含む6勝。ベストナインに選出されるなど、圧倒的なパフォーマンスを示したが、ドラフトでの指名は見送られた。既にトヨタ自動車への入社が内定していたためである。夢のプロ入りは社会人野球で腕を磨いてからとなっていた。

 新たなステージに進むにあたり、感じたことがある。「社会人野球って次のステージがないんですよ」。高校卒業時には大学、社会人がある。大学卒業時には社会人がある。もちろん、野球を引退するケースもある。「2、3年しかできないとかじゃない。駄目ならすぐ駄目になって社業に専念、10年やる人もいれば5年やる人もいる。3年でプロに行く人もいれば、2年でプロ行く人もいる。何年って決まって次のステージっていうのがもうない。これは“なあなあ”になったら終わるなって思いました」。

 周囲からは「トヨタ自動車に大卒で入っていいなあ」「一生安泰だな」と声をかけられたそうだが、胸の奥には違和感があった。「全然しっくりこなくて。大きい有名企業に入るために野球をやっていたわけじゃなくて、プロ野球選手になりたいから野球をやっている。大企業に入社したけど、僕の中ではここがゴールじゃない。『やっぱ、ここで長くいるよりも、できるだけ短い在籍で、プロ野球に進みたいんだ』っていうのを改めて凄く感じました」。

 社会人1年目だった2005年。トヨタ自動車のエースは同年のドラフト希望入団枠で中日に入団する吉見一起投手が君臨していた。後に中日で2度の最多勝を獲得するなど活躍した右腕は、チームの絶対的柱。連戦もあるため先発2、3番手も必要なのだが、服部氏は「2、3番手にも入ってないぐらい、1年目は駄目でした。成績が全然、伴わなかったですね」と振り返る。主要な大会での登板機会はほとんどなかった。

「『このままじゃいかんな』と感じました。大学4年の時の感覚の球が投げられていなかった。しっくりこなかったんです。これじゃドラフトにかかるわけがないって思いました」。幸い、11月の日本選手権で手応えが戻りつつあったという。「オフの期間でしっかり勝負できる感覚まで仕上げるしかない」。ネットスローを中心に、休日を含めて自主練習に明け暮れた日々。「ネットの手前までしか見えない分、感覚に集中できたんです」。試行錯誤しながら“勝負できる状態”を追い求め続けた。

 迎えたドラフト解禁イヤーの大卒2年目。春先から好投を重ね、スポニチ大会からチームの主戦として起用されるようになった。手応えをつかむと、社会人日本代表にも初選出。「日本代表ってことは、ドラフト候補の中でも上の部類に入ったんだなと感じました。『プロ野球選手になれるかも』とか『近づいてきたかも』ていう感覚が出始めましたね」。プロの舞台が明確に視界に入った瞬間だった。

 だが、不可解な“ルール”が立ちはだかる。「監督に『お前は去年、貢献してないから、今年はまだ出せない』と言われました。そんな訳の分からないルール初めて聞きました」。トヨタ自動車にも事情があった。高卒7年目で1学年上の上野弘文投手(広島)がプロ入りラストチャンスと言われていたのである。山中繁監督に「今年は上野がプロに行くからな。お前はどうしたい?」と聞かれ「僕はプロ行きたいです」と即答。それに対して山中監督も「トヨタ自動車は2年間、会社に貢献しないとプロには行けないんだ」と譲らなかったという。

駒大の先輩、日本ハム・今成スカウトが強行指名“約束”

 指名順位にこだわりはなかった。「やっぱりプロ野球選手になりたい。なるには2年目、3年目までに指名がないと、どんどん門が狭くなっていく。来年、行ける保証があるわけでもないし、チャンスがあるなら一刻も早く行きたい」。それでも2年間の貢献が前提である方針を崩さない会社に対し、服部氏は折衝案を提示する。

「1年目は貢献してないのは自分でも分かっていました。だから都市対抗でチームを勝たせられたら、それが証明になると思ったんです」。当時のトヨタ自動車は、全国大会ベスト8が最高。都市対抗で過去最高となるベスト8以上に導けばプロ入り、早期敗退なら残留の約束を取り付けたのである。

 東海地区の第1代表として出場した都市対抗は1回戦で三菱重工長崎と対戦。服部氏の好投もあって6-1と快勝発進した。しかし勝てばベスト8進出となる日産自動車との2回戦で服部氏が打ち込まれて5-9で敗退。約束を果たせなかった上に、“自動車対決”に敗れたとあって「もう1年、残ります」と自身の言葉に責任を取り、プロ志望を1年先送りする決断を下した。

 その時期に、駒大の先輩でもある日本ハムの今成泰章スカウト(故人)から、話しかけられることがあったという。ある時、こんなやりとりがあった。「お前、どうするんや?」「僕はプロ行きたいです」「監督が“出さへん”言うとるぞ」。それでも「僕は行きたいんです」と主張すると、今成スカウトは「お前がホンマに行くっていうなら指名するぞ」と強行指名を約束してくれたそうである。

 花巻東高からMLBへの挑戦を表明していた大谷翔平投手(ドジャース)ら獲得困難と見られた選手を何人も入団に導いており、“マムシの今成”の異名を持つ敏腕スカウトのお墨付きは心強かった。結局、都市対抗での敗戦を受けて「今年は行かないことになりました」と報告。すると「じゃあ来年、最初から1位候補として見とくからな」と返答があった。その言葉は、服部氏にとって大きな支えになる。

「大学の後輩だから、気にかけてくれていたんだと思います。それでも、確定ではないけど、現時点で評価されている。頑張れば本当にプロに行けると感じました」。翌2007年、無双状態の活躍を続け、ドラフト1巡目候補として複数球団からマークされるようになっていく。秋には念願のプロ入りを果たすのである。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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