即戦力ドラ1のはずが…並んだ屈辱の数字「全然違う」 焦りと重圧、見失った本来の姿

ロッテ時代の服部泰卓氏【写真提供:産経新聞社】
ロッテ時代の服部泰卓氏【写真提供:産経新聞社】

元ロッテ・服部泰卓氏、自分の良さを見失ったロッテ1年目

 2007年の大学・社会人ドラフト1巡目で3球団競合の末にロッテに入団した服部泰卓氏は、即戦力の期待を受けてプロの第一歩を踏み出した。1年目の2008年春季キャンプは1軍スタート。幼少期からの夢の舞台に立ち「テレビで見ていた憧れの世界に飛び込んで、最初のキャンプはめちゃめちゃ緊張しました」という。トヨタ自動車で極めた「自分がコントロールできることだけに集中する」という意識が薄れてしまい、“ドラ1としての期待”という重圧が自らを苦しめていった。

 ロッテはこの年から石垣島でキャンプを開催。先発投手陣は3年前の2005年日本一メンバーである清水直行、渡辺俊介、小林宏之ら実績者に加え、前年の2007年に16勝1敗でブレークした左腕の成瀬善久らが並び、非常に充実していた。中継ぎを含めた救援陣も、この年に復帰したブライアン・シコースキーら強力な布陣。社会人ナンバーワンの評価を得てプロ入りした服部氏も、簡単には入り込めない状況だった。

「『ドラフト1位だから魅せなきゃいけない』とか『やらなきゃいけない』『結果を出さなきゃいけない』とか背伸びして、できもしないことをやろうとしてしまっていました」。力みも生じてキャンプ中の紅白戦、練習試合はいまひとつの内容。オープン戦は3月5日のオリックス戦(スカイマーク)で2回無失点など中継ぎで5試合に登板し5回1/3を無失点と結果を残し、開幕1軍のメンバーには滑り込んだ。だが、登板機会がないまま先発投手の登録と同時に出場選手登録抹消。その後は気負いから自分の良さを見失ってしまったという。

 失投でも凡打に打ち取れることもあれば、完璧なボールを投げても打たれることはある。だから、自分がコントロールできない打者の結果は気にしない――。無双状態だったトヨタ自動車3年目の「自分がコントロールできることだけに集中する。いい球をキャッチャーに投げるだけ」というシンプルな考えが、自らに課した“ドラ1らしさ”という幻想により、いつの間にか頭から消えてしまっていたのである。

「自分の持っているものを素直に出せばいいだけなのに、できないことをやろうとするから、全然違う投球になる。社会人の時に自分の投球スタイルを確立して、うまくいったはずなのに……。結果が出ないと『このままじゃまずい』とか焦りが出て、自分のコントロール外のことばっかり考えるようになっていました。それでまた余計なことを考えて……。ほんと、今思えば精神的に未熟でしたね」

1軍登板なし、2軍では20試合に登板し2勝6敗、防御率6.99

 アマチュア時代とは違った感覚は、練習の時からあったという。「環境の違いはもちろんあったんですけど、一番プロで違ったのは球の質というか個性ですね。社会人までって、140キロを投げる投手が3人いたら、正直どれも大体同じように感じていたんですよ。でもプロは全然違うんです」。同期入団で高校生ドラフト1巡目の唐川侑己や、高卒2年目だった大嶺祐太の両投手とキャッチボールしたときの感想である。

「唐川の球と大嶺の球、同じような球速でも受けてる感覚が全く違う。その選手にしかない伸びとか重さとか、球に“性格”があるような感じでした。プロってこういう世界なんだ、って実感しました」。そんな中、社会人時代の1年前に驚くほどのパフォーマンスを見せた左腕が陥った負のスパイラル。期待と現実の間で揺れ動き、完全に自分を見失っていた。結局、1軍登板がないまま1年目が終了。イースタン・リーグでも20試合に登板して46回1/3を投げ2勝6敗、防御率は7点台が目前に迫る6.99……即戦力ドラ1にとっては屈辱的な数字が並んだ。

「『プロは凄い』とは思ったんですけど、『これは場違いだ』とか『こんなんじゃ、すぐにクビになっちゃう』とか、そういう意識はなかったです」。あまりに苦いルーキーイヤーだったものの、前向きな気持ちを失ったわけではなかったという。「自分の普通の力を出せれば勝負はできる世界だなとは感じました。後は自分との勝負。自分のピッチングがちゃんと出せるかどうかだけだとは思いましたね」。失わなかった前向きな気持ち。ただ、本来の姿を取り戻すのには時間がかかった。

 2年目の2009年は2軍では23試合で73回を投げ4勝3敗、防御率4.32と1年目より良化したものの、再び1軍のマウンドに立てないまま終了。プロ初登板は3年目を迎えた2010年3月21日の西武戦(西武ドーム)だった。しかし結果が伴わず、この年も1軍には定着できずに8試合の登板にとどまった。

「同じような失敗を何度も繰り返しましたね。それが長く、5年間続きました」。ドラ1左腕は苦悩の中でもがき続けていたのである。4年目の2011年も1軍登板はわずか5試合。5年目の2012年は再び1軍登板なし。戦力外通告もちらつき始めた中で、転機が訪れたのは6年目の2013年だった。開き直って1つのやり方を徹底。51試合登板とブレークし、ようやく日の目を見る時が訪れたのだった。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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