入団テスト合格も「2軍に落ちると解雇」 衝撃の短期契約…NPB戦力外→異国の地

元ヤクルトの鎌田祐哉氏、2012年は台湾・統一へ
ドラフト逆指名で入団したヤクルトで9年間、トレードで加入した楽天で2年間プレーした鎌田祐哉氏は、楽天から戦力外通告を受けた2011年オフに12球団合同トライアウトを受けた。その直前、ヤクルト・荒井幸雄打撃コーチから勧められたのが台湾球界への挑戦。結局、国内球団からは声がかからず、熟考の末に初めて海外にチャレンジする決断を下した。
ヤクルト在籍時から何かと気にかけてくれていた荒井コーチから12球団合同トライアウト前に「台湾でやってみる気はないか?」と連絡があったという。「その時は台湾のこともよく分からなかったので『そうですね……とりあえず考えてみます』くらいの感じでした」。そしてトライアウトを受けたが吉報が届かないまま時間が過ぎたある日、再び荒井コーチから「台湾の球団関係者が『誰かテストを受けないか?』と言っているみたいだから、受けてみたら?」と勧められ「分かりました」と決意した。
入団テストを受けた球団は台湾プロ野球の統一ライオンズ。日本人になじみが深く、当時は中島輝士監督(日本ハム-近鉄)が指揮を執っていた。紀藤真琴投手コーチ(広島-中日-楽天)も在籍しており、テスト後に紀藤コーチから「俺は一緒にやりたいと思っているから、球団にはそう伝えておくよ」と背中を押されたそうだ。チームに同行して1週間のテスト。帰国前に球団から「契約します。2か月契約になります」と合格を伝えられた。
「チームや選手で違うと思いますが、当時の統一ライオンズの外国人選手は2か月ごとの契約更新で、2軍に落ちると解雇と聞いていました。何試合か打たれると解雇になって、別の外国人選手が来ていました。今は契約期間も長くなって、待遇も良くなっていると聞いています」
2月途中から単身台湾へ。春のキャンプに参加し、まずはチームに溶け込もうと中国語の勉強に注力した。「台湾に着いてキャンプに参加した時、ロッカーが隣だった選手が日本語を話せて、年齢も同じだったので毎日、中国語について質問していました。他にも1人、同学年で駒大出身の台湾人コーチもいたので、とにかく教えてもらって、あとは実践してみる。遠征のバス移動の時間や、休日は本やアプリで学習し、必死に中国語を勉強しましたね」。
中国語を必死に勉強、行きつけの店で“実地演習”
そしてシーズン開幕前の決起集会で、一気に同僚と距離を詰める出来事が起こる。ユニホームの背中の表記が「鎌田祐哉」ではなく「鎌田哉祐」と間違えられていたため、修正に出しており、まだ手元に届いていなかった。「チームメートに『まだユニホームがないから、私は決起集会に行かなくていいよね』という意味の中国語の文章を教わって、みんなの前で話したんです。すると選手たちが凄く笑っていました。なんか言葉が通じて笑いが起こったことで、仲間に入れたような気がしました」。
新しい同僚とも積極的に食事に出かけたという。「分からなければ筆談をして、聞いて同じように話してみて、それをひたすら繰り返しました」。そこで気づいたのは「文法は英語と似ている」ということ。「英語に当てはめる感じで覚えました。文字は漢字なので、慣れてくるとなんとなく頭に入ってくるようになりました。発音は聞いてマネをして、実践あるのみって感じでしたね」。
1人で積極的に町にも出た。「行きつけのジュース店も作って、店の人とも顔見知りになり、メニューを指さして『これ、読み方を教えて』って聞いて、次に行った時に同じものを注文してみて通じるか試したりしていました」。失敗を繰り返しても恐れずに挑戦を続け、少しずつ現地の言葉を習得。チームメートとも中国語でコミュニケーションを図ることが増え、徐々に仲間が増えていく感覚があった。
開幕前から深まった絆。その効果は絶大だった。当初は2軍スタートの予定だったが、他の外国人選手が次々と離脱したため開幕2戦目の先発に抜擢。攻守に渡って味方の援護も受け、台湾プロ野球界の日本人記録を更新する連勝街道が始まった。これも貪欲に中国語を覚えた成果かもしれない。「チームのみんなが『鎌田は言葉を覚えて溶け込もうとしている。なんとか勝ってやろう』と言ってくれました。チームワークは大事ですよね」。2012年、台湾に鎌田フィーバーが巻き起こったのだった。
(尾辻剛 / Go Otsuji)