3年生が書類送検…不祥事で終わった高校野球「すべてを奪われた」 寮に火炎瓶、残酷すぎる通告

南海、広島などでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】
南海、広島などでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】

加藤伸一氏は倉吉北のエースとなった2年秋、戦うこともできなかった

 NPB通算92勝右腕で元ホークス戦士でもある加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)は不遇の高校時代を経験した。鳥取の野球強豪校・私立倉吉北に進学しながら、不祥事のため公式戦登板は1年秋の1試合と2年夏の2試合だけ。エースとして甲子園を目指した2年秋には、引退した3年生の暴力事件で戦う前から3年夏の大会出場までアウトになった。それでも野球を諦めずに有志だけの放課後練習で汗。そこから新たな道が開けていった。

 加藤氏が1年生だった1981年、野球部内のリンチ報道を引き金に倉吉北は夏の大会を出場辞退、練習試合自粛期間を経て秋の鳥取大会は優勝したが、中国大会前にこの問題がぶり返して、1982年6月30日までの対外試合禁止処分を受けた。ようやく出場できた1982年夏は鳥取大会準々決勝で鳥取城北に3-8で敗退。加藤氏は初回に乱調降板の3年生エース・藤山投手をロングリリーフしたが、及ばなかった。

 最上級生の立場となった2年秋、加藤氏はエースとして選抜を目指した。だが、またしても道を塞がれた。引退した3年生数人が他校生徒と乱闘事件を起こして、書類送検され、倉吉北は1年間の対外試合禁止処分。一気に翌1983年の3年夏の大会出場も不可能になったのだ。「さすがの僕も大ショックでした。1日、2日、学校に行く気にもならなかった。部屋で寝ていたら、母親にいろいろ励まされた記憶があります」。

 加藤氏と同学年の野球部員は全く無関係だった。そもそも1年の時から先輩からやられた側の世代。連帯責任とはいえ、残酷すぎる通告でもあった。「倉吉北の野球部は他からは、えらい横着に見えたんでしょう。(ほとんどが野球留学組で)県外から来て偉そうみたいな。実際に寮のガラスを割られたり、石や火炎瓶みたいなのを投げ込まれたりもあったんです。結局(一部の3年生は)そういう奴らと(乱闘を)やっていたわけです」。

 もちろん、やってはいけないことには変わりない。しかし、無関係の立場からすれば、むなしい思いばかりが先にくる。「僕は(自宅からの)通いだったからまだ……。県外から来ている同級生はかわいそうでした。甲子園を目指して親元から離れて寮に住んで、寮でも先輩にやられた上にすべてを奪われたんですからね。卒業だけはしなきゃと言う子もいましたけど、転校する子もいましたね」と声のトーンを落として振り返った。

「選手を取り過ぎちゃって学校が管理できなくなっていた。やんちゃして悪さして、地元からも嫌われるようになった。で、辞めた人間が親に言う。辞める理由を親が高野連に言う。もう、そんなんばっかりでした。悪循環ですよね」。進路にも影響が出た。倉吉北入学前の加藤氏は「甲子園に出て活躍して、有名大学に特待で入る」とのプランを描いていたが「もう甲子園もないわけですから、大学は無理だな、と、まずその選択肢は消えました」と話す。

4、5人での放課後練習で新展開「プロスカウトが見に来るようになった」

 実際、過去、先輩たちが推薦枠で進学した大学からも「倉吉北からはいらない」との連絡があったという。それでも野球は諦めなかった。「ここで野球をやめて(学業の)成績を上げようなんて思えなかった。やっぱり野球しかない、と思った」。そこで考えたのは社会人野球入りだった。1983年に王子製紙米子硬式野球部が創部。「NTT中国に先輩がいるよって話も聞いた。そういうのもありなんだなってね」。

 対外試合禁止の中、野球を続ける意向を持つなどの有志で放課後練習をやるようになった。「僕と、(2番手投手で)後にカープに入団する石本(龍臣)とショートのキャプテン。あとキャッチャーの同級生も僕のピッチングを受けるために手伝ってくれたりして、だいたい4、5人かな。アップして、キャッチボールして、ピッチングして、トレーニングして……」。そんな練習を続けていくうちに思わぬ展開になった。

「プロのスカウトが見に来るようになったんです」。加藤氏は2年夏の鳥取大会で2試合に登板したが、プロサイドはその当時から調査対象にしていた。「面白いピッチャーがかわいそうに出場停止になっちゃった。何かのついでに見ていこうか、みたいな感じだったと思いますよ、最初は」というが、放課後練習を見ただけでも、やはり将来が楽しみな逸材と判断されたのだろう。練習を終えて家に帰るとスカウトの名刺が置いてあったという。それもどんどん増えていった。

 最終的には日本ハムを除くプロ11球団のスカウトが加藤氏をチェックした。「自宅だけでなく、親父が務めている会社まで行くスカウトもいた。『加藤さん、黒い車に乗った人が息子さんのことで来ていますけど、何かあったんですか』って会社の人に言われたらしいです」。遠い存在に思っていたプロに入れるかもしれない。それが大きな励みにもなった。出場停止で萎えた気持ちにも再び火がついた。

「担任の先生から『今日はスカウトが来るから、ブルペンで投げるように』と言われたこともあった。スカウトから連絡を受けた(野球部の)監督が担任に言ったそうです。僕にそう伝えてほしいって」。気合も入れ直して、投球したのは言うまでもない。明らかに新たな道が見え始めた。なかでも一番熱心だったのが南海の杉浦正胤スカウト。ここから加藤氏とホークスの間に相思相愛の関係が築かれていく。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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