斎藤佑樹に間違えられた“プロ初日” ヘリ空撮&ファン殺到…同期が体験した大フィーバー

2011年、日本ハムの新人合同自主トレの様子【写真提供:産経新聞社】
2011年、日本ハムの新人合同自主トレの様子【写真提供:産経新聞社】

乾真大さんは2010年ドラ3で日本ハム入団、“斎藤佑樹フィーバー”の渦中に

 日本ハム、巨人でプレーした乾真大さんは今、東洋大野球部でコーチを務め、プロ時代の経験を母校に還元している。2010年ドラフト3位で日本ハムに入団して足を踏み入れたプロの世界は、同期で同1位の斎藤佑樹投手による大フィーバー。新人合同自主トレながら空撮のヘリコプターが飛び、連日ワイドショーで生中継された。“佑ちゃん”に間違えられることもしばしばという、衝撃的な幕開けだった。

「後にも先にも、あれ以上すごいのはここ最近ではないですよね」。乾さんが懐かしそうに振り返る。斎藤さんは早実高時代に甲子園初優勝に導き“ハンカチ王子”として一斉を風靡し、早大でも1年春からベストナインに輝くなど注目を集め続け、4球団競合の末に日本ハムのユニホームに袖を通した。

 迎えた新人合同自主トレの初日。グラウンドに向かおうと鎌ケ谷の寮を出た乾さんは、大挙したファンにいきなり斎藤さんに間違えられた。「『違いますよ、まだ来てないっすよ』みたいな。佑樹とよく『そんな似てるか!?』って笑ってましたけどね」。身長176センチの斎藤さんと、177センチの乾さん。遠目だと、どことなく似ていたのかもしれない。

 そんな“事件”も面白がって、同期6人でお揃いのジャージ、サングラスをして汗を流した日もあった。毎年恒例の歓迎式典は、例年は室内練習場で行っていたが屋外の球場で行い、スタンドにも人を入れることに。1万1000人が集まり、徹夜で並んだファンもいた。「朝起きて外を見たら、もうセンターくらいまで並んでいて『嘘やん、マジか』ってなったのは覚えています」というほど異例だった。

日本ハム、巨人などでプレーした乾真大氏【写真:町田利衣】
日本ハム、巨人などでプレーした乾真大氏【写真:町田利衣】

1年目はわずか5登板で体重10キロ増→2年目に36登板でリーグ優勝を経験

 乾さんは春季キャンプは沖縄・国頭のファームスタートだった。2月中旬に行われる恒例の1、2軍合同紅白戦が最初のアピール機会。そこで、この年全試合出場を果たすことになるが、まだブレーク前だった中田翔内野手(現中日)に本塁打を浴びた。「右打者に右中間に打たれるのは今まで経験したことがなかったんです。1歳下ですけど、トップの人はやばいなって。ちゃんとやらないと、もっと強い真っすぐを投げないといけないと肌で感じました」。

 プロ1年目は思い切ってトレーニングに力を入れた。体重は10キロ近く増え、直球の強さの手応えも得た。1軍登板は5試合に終わったが、翌2012年の36試合登板につながる土台を築いた。2年目はプロ初ホールド、初勝利も経験。「リリーフだったのでホールドが印象に残っていますね。阪神戦の2死満塁でいってブラゼルと対戦。フルカウントになって空振り三振を取った。そういうところで投げられるようになったのがうれしかったですよね。名前が呼ばれるか、とにかくドキドキの毎日でした」と充実のシーズンを送っていた。

 しかし8月2日のロッテ戦(QVCマリン)で1回4失点を喫して2軍落ち。チームは4年ぶりのリーグ優勝を果たしたが「いちばん大事な8月、9月に(1軍に)いられなかったので、どちらかというと悔しさが残っています」。クライマックスシリーズ(CS)はメンバー入りできず、日本シリーズは40人枠入りしてベンチに入った試合もあったが登板機会はなかった。「札幌ドームのウエート場でバイクを漕ぎながら見ていました。投げたかったですよね」。キャリアハイとなったシーズンも、さまざまな思いが去来していた。

 2013年以降は登板数を減らし、入団以降背負ってきた「16」は、2015年から「32」に変わった。腕を下げるフォーム変更に挑んだこともあった。「もっとよくなりたいというのがあっていろいろなことに取り組んだんですけど、今思えば根本的な改善はできないシーズンが続いていましたね……」。もがいていた2016年4月、巨人ヘのトレードが告げられることになる。

(町田利衣 / Rie Machida)

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