不祥事で消滅した対外試合 甲子園に「興味なし」も…球団から打診された“転校”

高校時代は3登板も…プロスカウトから注目受けた加藤伸一氏
南海・ダイエーなど4球団でプレーした加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)は鳥取・倉吉北時代、日本ハムを除くプロ11球団から注目された右腕だ。高1夏から部内不祥事続きで対外試合禁止期間がほとんど。高2秋の時点で高3時の実戦登板の機会も失ったが、スカウト陣は魅力たっぷりのストレート、切れ味抜群の変化球、安定した制球力などから将来が楽しみな逸材と評価した。2球団からは転校→球団職員プランも提案されたという。
倉吉北での加藤氏が公式戦に登板したのは、わずか3試合だけ。1982年の高2の秋には、引退した3年生の他校との乱闘事件によって、1年間の対外試合禁止を受け、事実上、そこで高校野球は終わった。それでも野球を諦めることなく、社会人野球入りを目指して、野球部の仲間数人だけで放課後練習に励んだところ、プロスカウトが続々と見に来るようになった。「最初に来られたのが南海のスカウトでした」。そこから噂が噂を呼んだようだ。
「今みたいに情報がない時代だからこそ、そういう噂って想像が膨らむんじゃないですかね。最初の南海は、地元で元高校野球の監督をやられていた方が飲食業をやられていて『ちょっといいピッチャーがいるから何かのついでに見ていってもいいんじゃないか』と言われたみたいです。まぁ軽い気持ちで三朝温泉や、皆生温泉もあるし、1泊しておいしいものを食べて、ちょっと見に行ってみようか、ぐらいで来られたと思いますよ」
加藤氏は高2夏の鳥取大会で2試合に登板。その時から評価していたスカウトもいたし、ブルペン投球などを見ただけでも引きつけられる逸材だったということだろう。「カーブ、真っ直ぐのコントロールには自信がありました。(捕手が)構えたところにアウトローいっぱいストライク、アウトローにボール、もう1回ストライク、次、ボールって感じでね。逆球なんかなかった。何球連続できるか、って遊びでやっていました」。
南海をきっかけとして11球団が見に来た。「手元で球がピュッといっていたのは自分でもわかっていましたが、他よりいいのか、悪いのかは……。試合していればわかるかもしれないけど、そうじゃないのでね。あの頃はスカウトがビデオを撮るという時代でもなかったし、ミットを持って受けにこられたスカウトもいましたよ。まぁ何でもありの時代でしたよね」。プロスカウトたちは獲得に向けて本腰を入れて動きはじめた。
「(倉吉北の)監督のところには、スカウトから『定時制への転校もありですよ、球団職員でどうでしょう』って話もあったと聞きました」。1981年西武ドラフト1位の伊東勤捕手は、熊本工(定時制)から定時制4年時に所沢(定時制)に転校して西武球団職員(練習生)となった後に指名されてプロ入りした。のちに禁止される“囲い込み”と言われたものだが、当時はそれも“裏技”のひとつとして行われており、そのケースと同じような形で、加藤氏にも誘いがかかった。
見なかった甲子園「あまり興味もなかった」
「2球団からそういうお話をいただいたということだったんですが、それは両親が駄目と……。『高校はここで卒業してもらいたい』ということでお断りしました。僕もそこまでして、っていう気持ちがありました。何か未知の世界で怖いですしね」。とはいえ同時にそれが励みにもなったという。「プロ野球のスカウトの方がこれだけ来られるわけだから、ちょっとそこを目標に頑張ろうってね」。もはや当初目指した社会人野球入りではなく、プロ入りを視野にして練習に力を入れた。
「どこの球団のスカウトだったか、忘れましたけど、練習プログラムをくださいってお願いして、もらいました。どんなことをすればいいのか、よくわからなかったんでね。多分、その球団のトレーニングコーチなどに聞いていただいたんだと思います。練習している時に、ヤクルトのスカウトの方だったかな『君、すごい練習をしているね』って言われたのを覚えていますね」。とにかく練習に明け暮れた。
「学校だけでなくて、家に帰っても練習していました。ウエート器具がなかったので、オリジナルで何キロのものとかを作って鍛えました。走ったりもガンガンやりましたね」。プロを目指す加藤氏を見て、周りもバックアップしてくれたという。「陸上部のヤツにノックしてもらったり、相撲部のヤツにちょっと受けてもらったりとか、仲のいい他の部活のヤツもみんな僕の大変さを知っていたから、応援してくれたんです」
また一冬を越した。1983年4月、高3になった。やることは練習だけだ。「あの年は春の選抜も、夏の甲子園もあまり見なかったですね」。同い年の面々が全国大会の大舞台で思う存分、実力を発揮する姿を知りながらも、敢えて見ないようにしたのかもしれない。「水野(雄仁投手、池田→巨人)が投げた、小野(和義投手、創価→近鉄など)が投げた、野中(徹博投手、中京→阪急など)が投げたって、あまり興味もなかったしね」ともつぶやいた。
そして、この頃には行きたいと思える球団もあった。南海ホークス。一番最初に見に来てくれた南海・杉浦正胤スカウトがドラフト外の獲得ではなく、ドラフト指名をいち早く約束してくれた。どこよりも熱意を感じたという。「ウチの親も南海に行きなさいって言っていましたしね」。もっともドラフト1位とは思っていなかった。「びっくりしました」。1983年11月22日、東京・飯田橋のホテルグランドパレスで行われたドラフト会議。運命の扉が開かれた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)