有名アイドルと対談のはずが…「大人って嘘ばかり」 球宴直後“異変”に「バカ野郎」

幻に終わった10勝インセンティブ「いけると思ったんですが…」
元南海右腕の加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)がオールスターゲームに初出場を果たしたのはプロ2年目の1985年だ。前半戦だけで8勝を挙げて、監督推薦で選出された。7月21日の第2戦(川崎)に3番手で登板して2回2失点で出番を終えたが、この球宴期間中には後半戦に影響を与える出来事があった。超有名アイドルとの対談プラン浮上に気合を入れ直し、偉大な名投手からのアドバイスには素直に耳を傾けたのだが……。
加藤氏にとってプロ2年目は飛躍の年になった。4月7日の阪急戦(西宮)、プロ初完投勝利でシーズン1勝目を挙げ、4月16日の西武戦(西武)は7回1/3、2失点で2勝目。4月27日の西武戦(大阪)は4失点完投も敗戦投手になったが、5月2日の阪急戦(大阪)では2失点完投勝利で3勝目をマークした。好調をキープし、5勝目、6勝目はいずれも完投で記録し、7勝目の6月17日の近鉄戦(大阪)ではプロ初完封と波に乗っていた。
前半戦だけで8勝(6敗)し、球宴にも初出場。同じく選出された西武・渡辺久信投手、日本ハム・津野浩投手と加藤氏は高卒2年目の19歳トリオと騒がれた。ロッテ・村田兆治投手、阪急・山田久志投手、西武・東尾修投手ら錚々たるメンバーたちとの“夢の競演”で、出番が来たのは7月21日の第2戦だ。2-4の5回から全パ3番手で登板し、巨人・原辰徳内野手に適時打を許すなど、2回2失点に終わったが、それも貴重な体験だった。
球宴では取材や解説で球場を訪れた有名評論家との“交流”もあった。1983年限りで現役を引退した元巨人、阪神のエース・小林繁氏からは19歳トリオの3人に「(シーズンで)一番成績を残したヤツにはキョンキョンと対談させてやるよ」とハッパをかけられたという。3人がアイドル・小泉今日子のファンだったからとのことで加藤氏は「そう言われて張り切りましたよ」。後半戦に向けての発奮材料にしたそうだ。
金田正一からの指導で起こった“違和感”
元国鉄、巨人で偉大な400勝左腕の金田正一氏からは「ちょっと(投球)フォームがきれいでバッターから見やすい」と指摘された。「ああして、こうしてと1対1で指導を受けたわけじゃないですよ。フォームについて、ちょっとこうやった方がいんじゃないのって、軽く言われただけなんですけどね」。とはいえ大投手にアドバイスされれば、やはり気になるというものだろう。加藤氏は早速、ボールの出どころが見えにくいフォームに挑戦したという。しかし……。
「練習の時にそのフォームで投げていたら、肘にちょっと違和感が出てきたんです」。加藤氏は事前に球宴明けの後半開幕戦、7月26日の西武戦(大阪)の先発を通達されていた。「後半の開幕だし、肘のことは(首脳陣に)言えなくて、そのまま投げました」。結果は7回9安打3失点で敗戦投手。違和感を抱えながらもそれなりに投げたが、恩師の河村英文投手コーチにはおかしいと見抜かれた。
「投げた後に、英文さんに『どうした、何があったんだ』と聞かれたんです。で、『オールスターで……』って正直に言ったら、えらい怒られました。『バカ野郎! 関係ない人にいろいろ聞くんじゃないよ!』って。そこから1軍帯同しながらちょっとの間、ミニキャンプをやったんですけどね」。だが、状態はなかなか戻らなかった。8月はすべてリリーフ登板で調整。9月から先発に復帰したが、後半戦は1勝しかできなかった。
プロ2年目の加藤氏は9勝11敗1セーブ、防御率4.09でシーズンを終えた。前半戦がよかっただけに無念の思いだったが、加えてこんなことも明かす。「10勝ならインセンティブがあったんです。僕はドラフト1位でしたけど、もともと5位とかの予定が繰り上がったので契約金も(5位相当の)それで設定されていた。でも1位だしあまりにも失礼ということで、ちょっと上乗せがあったんですけど、それでも1位の契約としては気の毒だ、ということで出来高がついていたんです」。
それが2年目までに10勝することだった。鳥取・倉吉北高から入団。即戦力ではない高卒投手にはなかなか厳しすぎる条件といえた。「そんなもん、普通できるわけがないじゃないですか。でも(2年目の)前半に8勝したでしょ。計算したら、10勝はいけるなと思って、先に車を買っちゃったんですよ。ソアラを。まとまったお金が入ったら全部払うからといってローンを組んで……。結局ローンで最後まで払いましたけどね」。
オフの契約更改で加藤氏は球団フロントに「まぁ、まだ子どもでしたからね。『10勝に1勝、足りなかったけど、それなりの成績を残したから少しでもいただけませんか』って言ったんです」という。「それも駄目でね。(球団からは)もう1年(10勝ボーナスチャンスを)延ばしてあげるわと言ってもらったんですけど、結局、達成できませんでした。ま、そういうこともありましたね」。
実現しなかった“小泉今日子対談”
小林繁氏からの“小泉今日子対談ハッパ”も実現には至らなかったという。1985年の西武・渡辺は8勝8敗11セーブ、防御率3.20、日本ハム・津野は7勝10敗、防御率4.42。「3人のなかで勝ち星は僕の9勝が一番多かったんですけど、何もなかったです」。加藤氏の場合、後半戦尻すぼみだったのが“小林査定”でマイナスになったのかもしれないが……。
「僕は(鳥取県の)倉吉市出身だけど、小林さんも鳥取の(東伯郡)赤碕(町)。それから10年以上経って、小林さんが近鉄のコーチをされている時『おい、田舎もん』ってよく言われましたよ。『いやいや、そちらの方が僕より田舎ですやん』と言いましたけどね。それまではあまり会うこともなかったんですよ。だから(小泉今日子の件は)何も言っていません。10何年後に言ってみたところで、みたいなね。まぁ2年目の時は大人って嘘ばかりつくなって思いましたけどね」
そう言って笑った加藤氏だが、この2年目後半から苦しい時期が増えていく。「あの年の後半は2軍にいって休んでから1軍に上がった方が10勝もできたかもしれませんね。後半も(16登板で)結構投げましたし……。3年目からはもうあちこち痛くなりましたからね」。その時はベストと思っていたことも振り返れば……。無情にも体が悲鳴を上げ始めていた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)