許せなかった大減俸「トレードに出して」 8勝でも自由契約…フロントとの“異例の約束”

加藤伸一氏は広島3年目のオフ、球団フロントとの約束で自由契約に
ダイエーや広島などで活躍した右腕の加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)はプロ15年目、1998年オフに広島から自由契約選手になった。22登板で8勝6敗、防御率2.99の好成績を残しながらの異例の事態だったが、実は1勝5敗に終わった前年(1997年)の契約更改時に減額制限を超える大減俸を了承する代わりに「来シーズンを持って退団させてください」と球団フロントに要望し、約束してもらっていた。「もう必死でした」。1998年は次の行き先に影響を与える闘いでもあったわけだ。
1995年にダイエーを自由契約となり、広島にテスト入団した加藤氏は移籍1年目(1996年)に9勝を挙げるなど、先発として復活を果たしカムバック賞を受賞した。だが、移籍2年目の1997年は17登板、1勝5敗、防御率7.48と精彩を欠いた。前年の開幕前に見舞われた左太腿肉離れを再び発症するなど、調整段階から苦しんだという。「肉離れって癖にもなるじゃないですか。しこりになって……」。どこよりもきついと言われる広島の練習ではなおさらだったようだ。
開幕ローテーション入りは果たしたものの、調子も上がらず、勝ち星にも恵まれず、6月中旬に2軍落ち。そこでもまた肉離れと流れも悪かった。9月に1軍に復帰したが、そこからは中継ぎで起用された。「それは(広島監督の)三村(敏之)さんの配慮なんです。9月に上がる時『申し訳ないけど先発はないぞ。でも来年の契約のためにも中継ぎでも行けるところをフロントに見せた方がいい。じゃないとウチのフロントはクビにするかもしれないから』って」。
この三村監督の言葉に加藤氏も奮い立った。シーズン最後までリリーフ役を黙々と務めた。だが、秋季キャンプ中に行われた契約更改交渉は指揮官の予想通り、厳しいものだった。戦力外ではなかったが、選手の同意が必要とされる減額制限(年俸1億円以下の場合は25%)を超える金額を提示されたという。「それはのめませんと保留しました。夜に宿舎の一室であったんですけど『じゃあ次(の交渉)は翌朝、下の喫茶店で』と言われて……」。
選手が練習に出発した後に2回目の交渉を行ったが、条件は変わらず、そこでも保留。「球場には練習途中に入ったんですけど、歩いて行くと選手もコーチもみんな、僕の方を見るんですよ。“どうやったんやろなぁ、ハンコを押したんかなぁ”みたいな感じでね」。3回目の交渉はその日の夜。最初の提示額に少し上乗せはあったが、減額制限は超えたまま。「トレードに出してください」とも訴えたそうだ。
広島ラスト登板でコーチが防御率を計算「少しでも高い条件で」
最終的には加藤氏が承諾する形で決着した。「その代わり、出来高の契約と『来シーズン(1998年)を持って退団させてください』と要望しました。それを(交渉役の球団フロントに)約束してもらったんです」。そして、この約束が翌1998年シーズンのモチベーションになった。オフには自由契約になるのだから、その年の成績が次の道にも影響を与えるだけに「もう必死でしたよ」と振り返る。
プロ15年目、広島3年目の1998年、加藤氏は4月こそ3試合に先発して0勝1敗と苦しんだが、5月6日のヤクルト戦(広島)に8回1失点で1勝目を挙げると、そこから3連勝。6月は打線との絡みで勝ち星をつかめなかったが、7月には2勝をマークするなど、白星を積み重ねた。結果は先発で22試合に登板し8勝6敗。規定投球回にも到達して防御率2.99。前年の成績を完璧に上回った。
その上で加藤氏は「感謝、感謝は三村さん。僕を(カープに)引っ張ってくれた人だし、最後の最後まで僕のことを心配してくれたんですよ。この年(1998年)は三村さんも(広島監督として)最後のシーズンだったのにね」としみじみと話す。「(オフに)自由契約になることは、人に言うべきではないと思って内緒にしていたんですが、8月か9月頃かなぁ、三村さんに『(球団フロントから)聞いたよ』と言われたんです」。
10月2日の巨人戦(広島)で加藤氏は7回自責点0(失点は3)で8勝目を挙げた。広島ラスト登板のこの試合で規定投球回に到達した。ベンチでは川端順1軍投手コーチらスタッフによって加藤氏の防御率の計算が行われ、2点台になったところで降板したという。「それも三村さんが『防御率が2点台と3点台では次の球団での年俸額が変わってくるから』って、少しでも高い条件で(他球団に)行けるように考えてくれたんです」。
三村監督との出会いがなければ加藤氏の野球人生は違うものになっていたかもしれない。まさに何から何まで「感謝、感謝」だった。1998年オフ、加藤氏は前年の約束通り自由契約となり、初のセ・リーグ、広島での3年間が終わった。短い期間だったが、自身にとっては大きなプラスとなる濃密で貴重な経験だったのは言うまでもない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)