断るつもりが「えっ、なんで」 まさかの逆転入団…“直前”で蹴った巨人のオファー

加藤伸一氏は広島を自由契約となり仰木監督が率いるオリックスへ
プロ15年目の1998年オフ、加藤伸一氏(現・KMGホールディングス硬式野球部監督)は自らの希望が叶う形で広島を自由契約となった。その年に先発投手として、8勝6敗、防御率2.99の成績を残した右腕には巨人、阪神など7球団から声がかかった。その結果、選択したのは仰木彬監督が率いるオリックス。「断ろうと思っていたんですけどね」。土壇場でひっくり返った“大逆転入団”であった。
1995年にダイエーを自由契約になって広島入りした加藤氏だったが、1998年に広島から受けた自由契約は、1勝に終わった前年(1997年)の契約更改で大減俸を了承する代わりに、球団フロントと交わした約束によるもの。1995年はダイエーで1軍登板なしから広島に拾われた形だったが、1998年は8勝をマークして防御率2点台の先発右腕であり、状況は全然違った。早速、巨人、阪神、中日、近鉄、オリックス、ロッテ、ダイエーの7球団から声がかかった。
「自分で全ての球団と交渉しました。今となれば面白い経験だけど、当時は大変でしたよ。もう、ほんま、ビジネスマンです。ネクタイして、バッグを持って(交渉場所として)指定されたホテルなどに行って……。逆に(自宅がある)福岡に(他球団関係者が)来られるケースの時は僕がホテルをとって、部屋もとりました」。とりわけ、かつて戦力外を通告されたダイエーからの誘いは感慨深いものがあったことだろう。
「僕は(ダイエー監督が)王(貞治)さんの1年目(1995年)にクビになった。それが3年後に王さんと1対1で話し『帰ってこい』と言われるところまで頑張れたってことですからね」と加藤氏もうなずいた。広島では福岡に家族を残しての単身生活だっただけに、古巣に戻ることも考えたそうだが、それ以外の球団も熱心だった。中日・星野仙一監督からは直電もあったという。
「星野さんは僕のシュートを結構評価してくれた。“ウチは投手陣が不足しているわけじゃないけど、暑い夏の2か月とか、ある程度の期間だけでも頑張ってほしい”みたいなことを言われた。僕はいっぱい投げたいと思っていましたけど、直接言われてうれしかったですよ」。さらに阪神からも近鉄からもラブコールは続いた。そんななか、加藤氏の気持ちを最も揺さぶったのは巨人だったという。
「やっぱりネームバリューですよね」。加藤氏はこの時の進路を南海時代の1軍投手コーチで、当時は野球評論家で、中洲のスナック『MEET15』の経営者でもある恩師の河村英文氏に相談していた。「英文さんからも最初は『そりゃあ、巨人がいいんじゃないか』って言われていました」。この頃までは巨人か古巣・ダイエーで迷いつつ、ちょっとばかり巨人に傾いていたそうだ。「オリックスは、オの字もなかったんですけどねぇ」。ここから“大逆転劇”が起きた。
交渉の席で待っていた恩師「オリックスに決めてくれないかな」
「確かオリックス(との交渉)が一番最後だったかな。場所は(福岡の)親不孝(通り)のふぐ料理店だったと思います。僕、その時に断ろうと思って行ったんですよ」。事前にオリックスからは編成担当の矢野清氏と流敏晴氏の2人が来られる、と聞いていたという。「そしたら、お店に行くと革靴が3つあったんですよ。あれって思いながら上がっていったら、そこに英文さんもおられたんです」。全く想定外の状況だった。
「『えっ、なんで』みたいに言ったら、英文さんは『へへへ、実はな(オリックス監督の)仰木から、投手コーチを頼まれてなぁ』って。『(矢野氏と流氏の)お2人は遠いところから来られているし、今日中に返事するのがマナーってもんだよ』とも言われて……」。河村氏は仰木監督より2歳年上で、西鉄でも先輩、後輩の間柄。その関係もあってオリックス投手コーチに就任することになり、愛弟子の加藤氏の獲得にも動き出したというわけだ。
「『あのぉ、考えさせてください。帰ります』と言って帰りました」。断るつもりだったのが、一転した。その後も河村氏からは「オリックスに決めてくれないかなぁ」と何度も言われたそうだ。さらに考え悩んだ。結果、恩師との縁を大切にしようと決めた。「ウチの家内も“その方がいいんじゃない”って言ってくれた。やっぱり“人”。それは間違いじゃなかったと思っています」。
球界の盟主・巨人でもなく、家族が住む福岡の古巣・ダイエーでもなく、オリックスを選んだ。ただただ河村氏の助けになりたいとの熱い気持ちでイチロー外野手らもいるオリックスの一員になった。「条件は他球団の方がよかったし、複数年でもなくて単年契約でしたけどね。『河村さんがいるのでオリックスにします』と言ったら、他球団も『分かりました』と理解してくれた。まぁヨソに対して断りやすさもありましたね」。
オリックスでの背番号は1。「11番が空いていたけど(1998年に引退したばかりの右腕・佐藤)義則さんのあとだし『それはちょっと』と言って、1番にしました。それも面白いかなと思いましたしね」。南海時代以来となる久しぶりの関西生活。帰ってきたパ・リーグで加藤氏は再び闘志を燃やした。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)