寮の小部屋…わずか数分だった“戦力外通告” 編成から告げられた言葉、あっけなかった最後

加藤伸一氏が21年目に引退を決意、不完全燃焼だった“ラスト”
大阪近鉄バファローズは2004年シーズンを持ってオリックス・ブルーウエーブに吸収合併された。当時近鉄の一員だった加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)はその年のオフに現役引退を決意した。1983年に鳥取・倉吉北からドラフト1位で南海ホークスに入団してから4球団を渡り歩き、プロ21年目のことだった。「まだやりたいと思っていたんですけどね……」。不完全燃焼のラストでもあった。
2001年オフに加藤氏はオリックスからFA宣言し、近鉄に3年契約で移籍したが、2002年は右肘故障、手術でわずか2登板で0勝1敗、2003年は16登板で6勝6敗に終わった。契約最終年の2004年は勝負の年だったが、思うような展開にはならなかった。シーズン初登板は開幕10戦目の4月7日のダイエー戦で先発したが、松中信彦内野手と井口資仁内野手に一発を浴びるなど、4回2/3、5失点で黒星発進だった。
「その年も2軍に行ったり来たりの感じでしたね」。2登板目の4月29日の日本ハム戦から先発ローテーション入りして6月上旬までに2勝を挙げたが、それ以降は勝てず、登板機会も大幅に減った。6月中旬には近鉄、オリックスの合併問題が表面化。「もう野球どころじゃなくなりましたね」。1リーグ制などの再編案が浮上したり選手会による初のストライキが決行されるなど、プロ野球界は大いに揺れた。
「(近鉄監督の)梨田(昌孝)さんが、集合した選手の前で『申し訳ない』と泣き崩れて……。フロントも首脳陣も野球どころじゃなく、みんな就活が始まるような感じになって……」。近鉄はオリックスに吸収され、新球団名がオリックス・バファローズになることが正式に決まった。近鉄としての本拠地・大阪ドームでの最終戦(9月24日、西武戦)には加藤氏も2番手で登板し、1回を打者3人で抑えた。
シーズン成績は2勝3敗。結果的にこれが加藤氏の現役ラスト登板になったが、この時は最後にするつもりは全くなかったという。「球団もなくなるし(現役生活が)どうなるかというのはもちろんありましたけど、145、6キロは出ていたし、まだまだ、という気持ちだった。(試合後に)みんなでグラウンドを1周した後、(西武監督の)伊東(勤)さんに挨拶したら『長いこと頑張ったね』と言われて『いや、まだやりたいですよ』みたいな話もしましたしね」。
加藤氏は「野球人は自分で終わりを決めるのも幸せだけど、やっぱり1年でも長くやりたいのが野球人ですよ」と言う。だが、現実は厳しかった。「(編成担当から)藤井寺の寮に呼ばれて『今年で契約終わり。伸一やから何かあるやろ』って1分か2分。入る時はホテルでディナーだったけど、終わる時は寮の食堂横の狭い部屋で……。まぁみんな、こんなものなんですよねぇ」と苦笑しながら話したが、悔しい思いだったに違いない。

トライアウトに参加も、届かなかった“吉報”
近鉄で戦力外となったため、オリックスと新球団・楽天の間で行われた選手分配ドラフトにも加藤氏の名前はなかった。「楽天でやりたいな、というのもありましたけどね。(11月9日に)西武ドームであった(12球団合同)トライアウトにも行きましたよ。ゼッケンをつけて投げました」。あくまで現役続行にこだわって挑んだが、39歳の右腕に吉報は届かず引退を決意した。「トライアウトから2週間くらい経ってからでしたかねぇ」と振り返った。
自宅のある福岡に戻り、野球評論家として次の道に進むことにした。「すぐマスターズリーグでも投げましたよ。(福岡ドンタクズ監督だった)稲尾(和久)さんから連絡があって、先発するように言われてね。おじいさんを相手に145キロぐらいを投げました。そりゃあ、まだまだ剛速球を投げられましたからね」と笑ったが、それも無念の思いを込めた意地の投球だったのかもしれない。
南海・ダイエー、広島、オリックス、近鉄。4球団でプレーした加藤氏の通算成績は350登板、92勝106敗12セーブ、防御率4.21。「うーん、やっぱり物足りない。僕としてはね。100勝は最低でもしたかったし……。それもひとつの目標にして21年頑張ってきたのでね。振り返ると怪我が多かった。まぁ、みんなそうでしょうけど、怪我がなければもっと勝てたというか……。ここまでよくやったという半面、もっとできたかなっていうのもありますよね」。
その上で「運もありますよ」ともつぶやいた。「だってFAで入った球団(近鉄)が、FAで出て行った球団(オリックス)から吸収されるなんて夢にも思わないですもんね。そりゃあ(合併球団の)オリックスにしてみれば加藤は獲るな、ってなったでしょうし……」。とはいえ、加藤氏が残した実績は誰もができることではない。
高校時代は不祥事続きで公式戦登板がわずか3試合ながら、ドラフト1位で南海入りし、高卒1年目から1軍で活躍。球団譲渡で南海からダイエーに変わった1989年には12勝を挙げて鷹の新エースと呼ばれた。その後、右肩痛もあって戦力外も経験したが、1996年には広島で復活の9勝をあげてカムバック賞を受賞。2001年には3球団目のオリックスでも11勝と存在感を示した。何度も何度も苦しい時期をはねのけて積み重ねたプロ生活21年間だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)