生粋の阪神ファンが宿した“近鉄魂” 貫く愛…球団合併も「古巣はオリックスではありません」

近鉄で活躍した羽田耕一氏、少年時代は阪神・村山実投手に憧れ
近鉄戦士としてNPB通算225本塁打、1504安打をマークしたのが羽田耕一氏だ。兵庫・三田学園から1971年ドラフト4位で近鉄入りし、高卒2年目で三塁のレギュラーポジションを獲得。3年目からは、この年、監督に就任した西本幸雄氏によって、さらに鍛えられ、クリーンアップも任されるなど、長きにわたって活躍した。近鉄を支えたレジェンド野手のひとりだが、少年時代は阪神ファン。村山実投手に憧れていたという。
羽田氏は1989年限りで現役を引退。その後もチームに残り、打撃コーチや編成担当を務めた。2004年オフに近鉄がオリックスに吸収された後は合併球団のジュニア監督などで力を発揮し、2014年限りで退団したが「僕の古巣はオリックスではありません。やっぱり近鉄です」と語気を強める。球団がなくなっても“近鉄バファローズ愛”は永遠。近鉄時代の日々は、かけがえのないものになっている。
とはいえ、近鉄との関わりが深まるのは1971年のドラフト会議で4位指名されてからのこと。兵庫県尼崎市出身の羽田氏は、それまでずっと阪神ファンだったそうだ。「僕が小学校5年の時だったかな。父親が初めてテレビを買って、プロ野球中継を見るようになりました。巨人戦が多かったんですけど、やっぱり応援するのは(地元の)阪神でした」。なかでも魅入されたのが、巨人の王貞治内野手と長嶋茂雄内野手の“ON”に立ち向かっていく村山投手だった。
「バッターをキリキリ舞いさせるでしょ。伝家の宝刀フォークボールでね。憧れましたよ。投げるスタイルとか、体全体で投げられていてすごいなぁって思いましたね」。小学校高学年になってからは軟式野球を始めた。「家の前が公園でね、近所に野球好きな人が多くて、そこで大人と一緒にやらせてもらっていた。町会のチーム。他の地区の町会との試合もあった。確か僕は外野を守っていたと思います。打っていたかどうかは、ちょっと記憶にはないんですけどね」。
大人に混じっての軟式野球で、その面白さにハマり込んだ。「まぁ我々の時代で遊びといったら野球でしたからね。まだサッカーはそんなに広まっていなかったんで。小学校の校庭では朝はドッジボール、授業が終わってからはクラスで野球の三角ベースとかをやっていましたしね」。尼崎市立若草中学では迷うことなく軟式野球部に入部した。「ピッチャーでした。1年の最初の時は声を出すだけでしたけど、3年生が引退してからは(背番号)1をつけたんじゃなかったかなぁ」。
伊良部秀輝氏は中学の後輩「やんちゃだったみたい」
中学生になってからは同級生と阪神電車に乗って、よく甲子園球場へタイガース応援に出かけていたという。「僕が行った時は村山さんが投げていなかった。だから村山さんはテレビでしか見てないんですけどね」。憧れの人に刺激を受けて、投手としての技量も年々アップした。「監督は英語の先生で野球はからっきし素人でノックもできない人。だから我々だけで練習してね。自己流です。まぁ、僕の場合、地肩が強かったんでね」。
中学3年の時には兵庫大会を制して近畿大会まで進んだ。「近畿大会では準優勝でした。三塁に走者がいる場面で僕のボークで1点取られて、それで負けたんです。相手は大阪のチームだったかな」。ちなみに若草中学からは羽田氏だけでなく、バッテリーを組んだ中西弘明捕手も後に阪急入りした。年が離れた後輩にはドラフト1位選手が、1987年ロッテ1位・伊良部秀輝投手、1999年阪神1位・的場寛一内野手と2人もいる。
「伊良部は我々以上にやんちゃだったみたいですけどね。プロになってから挨拶にきたかなぁ。それくらいしか話したことはなかったですけどね。的場はさらに年が離れているけど、家が近所でね、ドラフトにかかるとき、近鉄の編成に『ちょっと声をかけて』と頼まれて、ご両親とどこかの店で話したんですけど、もう阪神に決まっていたのかな、駄目でしたね。まぁ、今は、その(若草)中学もなくなって小田南中学と統合して小田中学となっていますけどね」
近畿大会準優勝の若草中学軟式野球部のエースとして名を馳せた羽田氏は複数の高校から誘いがあった中、三田学園への進学を選択した。阪神ファンで、近鉄のことなど頭の片隅にもない時期だが、振り返れば、ここから近鉄との“縁”は始まっていたのかもしれない。当時の監督・日下隆氏は元近鉄外野手。この“関係”が、のちの進路に影響を与えることになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)