古い寮、狭い部屋…先輩に待たされた風呂 パ球団で驚いた“待遇”、1年目で実感したプロの壁

羽田耕一氏が掴んだ感覚、長嶋茂雄氏の打撃を徹底研究
兵庫・三田学園から1971年ドラフト4位で近鉄入りした羽田耕一氏は高卒2年目の1973年5月から1軍に定着した。若くして三塁手のレギュラーの座をつかんだが、プロ入り当初は「速いボールが全然打てなかった」と壁にブチ当たったという。それが変わり始めたのは1年目(1972年)の秋。きっかけは巨人・長嶋茂雄内野手を徹底研究したことだった。「タイミングの取り方を真似したら、打てるようになったんですよ」と明かした。
近鉄入りした羽田氏は藤井寺球場に隣接する合宿所「球友寮」でプロ人生をスタートさせた。「今の寮はどこもきれいで立派ですけど、あの当時の(近鉄の)寮は古いし、部屋も狭いし……。1軍の人が藤井寺で練習とかして、風呂に入っている時は『入るな、待ってろ、一番後や』って言われるんですけど、最後に入る時は風呂が……。今考えれば、よう病気にならなかったと思うくらいですよ」と苦笑した。
背番号は30。球団に与えられたものだが「昔の30番って監督の番号だったらしいんですよ。それでよくヤジられましたね」。かつては南海・鶴岡一人監督、巨人・水原茂監督らが30番をつけており“お前は監督かぁ”みたいなヤジが、いきなり飛んできたそうだ。1年目のキャンプ地は宮崎・延岡。「右も左も分かりませんし、入った時はよう怒られました」。レベルの差も感じたという。「いざ中に入ってみたら全然違いました。パワーとか動き自体もね」。
分厚い壁があった。「1年目は2軍でもそんなに試合に出ていないんです。出た時は外野。ライトとか守っていたと思う。まぁ、練習させられました。全然速い球が打てなかったんですよ。それで毎日、毎日、ティーとかスクワットとか、させられました」。同期で同い年の梨田昌崇捕手(1971年ドラフト2位、浜田高)とともに練習漬けの日々だった。そして「1年目の秋以降なんですよ。自分の感覚が変わったのはね」と話す。
「どうにかして速いボールを打てるようにせんといかんなぁって、長嶋茂雄さんのタイミングの取り方を真似したんです。足をひいてやるのが、自分に合っているなぁと思ってね。それをやりだしたら、速いボールでもガンガン打てるようになったんですよ」。長嶋氏の打撃フォームの分解写真が雑誌に載っていたそうで「ひとコマずつあるじゃないですか、そういうのを見てね」と研究しまくった成果だった。
2年目(1973年)、羽田氏は自らのアクションでチャンスをつかんだ。「昔は1球団が抱えている選手の人数が少なかった。今みたいに目一杯の70人ではなく、近鉄は60人くらいだったかな。で、2年目の2月末か3月の頭だったと思うんですけど、甲子園で2軍のオープン戦みたいなのがあった時、ほとんどピッチャーばかりで野手があまりいなかったんです。サードを守れる人がいなくてね。僕はゲームに出たいから『できます。やらせてください』と言ったんです」。
この志願による三塁手としての2軍戦出場が、羽田氏の野球人生に大きなプラスとなった。「あれが僕のスタートでしたね」。長嶋氏研究でアップした打撃力も2軍の実戦で見せられるようになり、5月にはついに1軍から声がかかった。5月17日の南海戦(日生)で9回に三塁を守りプロ初出場を果たした。
「一番最初は守りだけです。ナイターでね。それまでは昼間(の試合)しかやっていなかったので、ボールの速さ、強弱とか距離感が分からなかった。飛んできたらどうしよう、もう体で止めるしかないなと思いながら守っていました。その時は飛んでこなかったのでよかったですけどね。ただ外野からの返球は来たんです。それもグラブで捕るというよりも体で止めるような感じになりました」。とにかく必死だったようだが、2試合目にはスタメンで起用された。
プロ初安打が初本塁打、三塁起用がもたらした飛躍
5月20日、平和台球場でのダブルヘッダー・太平洋戦に羽田氏は2試合とも7番三塁で出場。第1試合は4打数無安打だったが、第2試合は4打数1安打1打点。7回に太平洋・三輪悟投手から放ったプロ初安打が、プロ初本塁打、プロ初打点にもなった。1軍でも結果を出して勢いづいたのだろう。「平和台が終わって、次は仙台に飛んでロッテ戦。僕はそこで大化けしたんです」。
5月22日のロッテ戦は7番三塁で4打数1安打。5月23日はダブルヘッダーで、第1試合ではロッテ・村田兆治投手から2号本塁打を放つなど4打数2安打と気を吐いた。第2試合は6番三塁と打順がひとつ上がり、3号、4号と2本塁打を放って4打数2安打3打点の大活躍でチームの勝利(10-0)に貢献した。まだ続く。5月25日の南海戦(西京極)も6番三塁で5打数4安打3打点と大暴れだ。
ドキドキの三塁守備で始まった羽田氏の1軍生活だったが、一気に三塁レギュラーに定着した。守備はリーグ最多の27失策と課題になったものの、104試合に出場し、12本塁打、34打点の成績を残した。「ファームの人にも光を与えたんじゃないでしょうか。あの羽田でもやれるんだってね」。新人王は12勝(13敗)を挙げた日拓・新美敏投手がつかんだが、当時20歳の羽田氏の打棒も十分すぎるほどインパクトがあった。
「僕の成績では新人王は無理だと思っていた。全然、意識なんかしていなかったですよ。そんなの2桁勝利を挙げたピッチャー(新美)に対して失礼やと思っていましたしね」とも話したが、長嶋氏研究、2軍で三塁出場志願をきっかけに大きく飛躍した2年目だった。「あの時、2軍で『三塁をやらせてください』って言っていなかったら。いろいろ違っていたでしょうね」と話すと笑みを浮かべた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)