名将が激怒し平手打ち「シーンとなった」 選手に求めた“意識”「180度変わりました」

近鉄で活躍した羽田耕一氏【写真:山口真司】
近鉄で活躍した羽田耕一氏【写真:山口真司】

プロ3年目の羽田耕一氏を変えた西本監督との出会い

 元近鉄戦士の羽田耕一氏にとって最大の恩師は、プロ3年目の1974年シーズンから監督になった西本幸雄氏だ。1973年まで阪急を指揮していた名将が今度は近鉄強化に動き出したが、その指導は激烈だった。練習から手を抜くことなく、常に全力を求められるなど「今まで野球をやってきたなかで、もう180度変わりました」。合同自主トレ初日から仰天の“西本アクション”があったという。

 西本氏は阪急監督を退任した1973年オフに、近鉄監督に就任。その名将から、羽田氏はドラフト同期で同い年の梨田昌崇捕手とともに「お前らがいるから、ここに来た」と言われたという。「日生球場でちょうど(1973年オフの)契約更改の時に梨田と一緒にいたら、たまたま通路に西本さんがおられて、その時にね。“はい”とか何か返事したんちゃいますかねぇ」。仰天の出来事は、そんな“出会い”を経ての1974年合同自主トレ初日に起きた。

「今と違って、あの頃は(1月)10日過ぎくらいから藤井寺に全員集まっての自主トレ。アップの時は、6人くらいの組を作って、藤井寺球場外周などを走るんです。一番最初の組はピッチャーの若手とかが走るので、中堅とかがいる2番手の組は追いつけないんですよ。西本さんは『追いつけ!』と言っていたんですけどね。僕は3番手の組だったんですが、何周かして、2番手の組がレフトを回ったくらいで西本さんが「止まれ」って一声かけたんです」

 全員がストップした次の瞬間、西本監督は2番手の組の6人に対して、立て続けに平手打ちを食らわせた。「バチ、バチ、バチってね。西本さんは切れていた。その組には(身長193センチの)ジャンボ仲根(仲根正広投手)がいたんだけど、西本さんは飛び上がってやっていましたよ。びっくりしました。みんなシーンとなってね……」。今ならアウトな指導だが、当時はそれでチームが引き締まり、アップから誰もが集中して取り組むようになったそうだ。

 西本監督は練習から選手に全力の真剣勝負を求めた。「フリーバッティングでは『軽く振るな、1球目から思いっ切り振れ、それでいい当たりをしろ!』と言われました。バッティングピッチャーもドラフトで入ったばかりの選手とかで全力で放るんですよ。それで変な当たりをするとね、西本さんは持っていたノックバットを(打撃)ケージにガツーンってやるんです。もうバッターもピッチャーも緊張してやっていましたよ」。

初の開幕スタメン、3番起用に「何も言われていなかった」

 羽田氏は「練習の厳しさ、野球の厳しさ。(監督が)西本さんになって変わりました。今までやってきた野球とは180度、変わりました」と話す。絶えず、どこからも”西本チェック”がなされている感じで「当時の選手たちは誰もが『西本さんは後ろにも目がある』と言っていましたよ」と、まさに気が抜けない日々だった。

「キャンプではね、次の日が天候が悪いと分かったら、休みと入れ替えるんです。みんな休みに合わせて何か考えているじゃないですか。だからそれも……。“ウワー、雨や、今日が休みやなぁ”ってね。ただし練習が始まったら、雨が降ろうが、雪が降ろうが絶対やめないんですけどね」。兵庫・三田学園からドラフト4位で近鉄に入団し、高卒2年目の1973年途中から三塁レギュラーの座をつかんでいた羽田氏だが、3年目からの西本体制でさらに鍛えられ、成長していった。

 1974年4月6日の南海戦(大阪)では初の開幕スタメン、しかも3番打者として起用された。「オープン戦の時も3番はあったんだけど、まさか本ちゃんであるなんて思っていなかった。(事前に)何も言われていなかったし、スタメンを見て(3番三塁と)知りました」。4番・土井正博外野手、5番・クラレンス・ジョーンズ内野手の実績ある強打者とクリーンアップを組んだが、若い羽田氏は、南海・江本孟紀投手を相手に4打数2安打1打点と結果も出した。

 その後もバットは好調で、4月13日の太平洋戦(藤井寺)で3安打1打点、4月18日のロッテ戦(日生)では3安打2打点、4月25日の日本ハム戦(後楽園)でも1号本塁打を含む3安打2打点と打ちまくった。「確か、あの年、最初の頃は(ロッテのジョージ・)アルトマン(外野手)とかと(打率も)競っていたと思うんですよね」と話す通り、4月終了時点で打率4割7厘。4月29日から5月1日の2試合にまたがって4打席連続本塁打も達成した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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