タイトル争いの裏にあった“駆け引き” 専門家も経験…忘れぬ名将の打診「球種を言いなさい」

現役時代にNPB通算2038安打をマークした新井宏昌氏が回顧
ナ・リーグ本塁打王争いは9日(日本時間10日現在)、フィリーズのカイル・シュワバー外野手が50本塁打を放ち、48発のドジャース・大谷翔平投手に2本差をつけトップ。両チームとも残り17試合で、直接対決も3試合を残す。シーズン終盤、タイトルのかかった選手を抱えるチーム同士の対戦と言えば、過去のNPBでは四球合戦などが繰り広げられたこともあるだけに、結果は果たして……。
タイトル絡みの駆け引きと言えば、NPBでは1982年(昭和57年)、大洋(現DeNA)が長崎啓二外野手に首位打者を取らせるため、打率で肉薄していた中日の田尾安志外野手を5打席連続四球で歩かせ、田尾外野手も敬遠の球を2球空振りして“抗議”の気持ちを表明した件が有名だ。その他、盗塁王候補を抱えるチーム同士の対戦で、投手が故意のボークで一塁走者を二塁に進め、相手の二盗を“阻止”したこともある。
令和の時代ではあまり見られなくなったが、現役時代にNPB通算2038安打をマークし、何度もタイトル争いを経験(1987年には首位打者獲得)した野球評論家・新井宏昌氏に、自身の経験を語ってもらった。
新井氏が経験したことは、目を覆うような四球合戦とは趣を異にしている。南海(現ソフトバンク)の外野手として活躍していた1979年(昭和54年)、近鉄とのシーズン最後の対戦前に、相手監督の西本幸雄氏(故人)から、こう声をかけられたという。「うちのキャッチャーに言っておくから、打席で打ちたい球種を言いなさい」。この年は阪急(現オリックス)の加藤英司内野手と、レベルの高い首位打者争いを演じていたのだ。
「びっくりしました。西本さんは阪急監督時代に加藤さんを指導した師匠でもありましたから。なおさら不思議な気がしましたが、若い僕にもチャンスをあげようとしてくれたのかもしれません」と振り返る新井氏は、当時27歳で初タイトルを目指していた。一方、31歳の加藤氏は既に首位打者を1回、打点王も3回獲得していた。
「セーフティバントをさせるから三塁手を下げておいてくれないか」
ただし、新井氏は相手捕手に話しかけることはしなかった。「お気持ちはありがたかったのですが、自分としては不正みたいなことはできないという気持ちが強かったですね」。最終的に新井氏は.358の高打率をマークするも、打率.364を残した加藤氏に敗れた。
新井氏は、昭和の時代には「シーズン最終戦で1打数1安打なら打率が3割になる選手がいた場合、味方のコーチが相手チームに『第1打席でセーフティバントをさせるから、三塁手を少しだけ下げておいてくれないか。その代わり、バントヒットになったら、牽制死か盗塁死にさせて、すぐに交代させる』と持ち掛けたというような話を何度か聞きました」と証言する。
新井氏自身も、相手の“好意”に応じかけたことがある。近鉄に移籍した後の1987年(昭和62年)、当時張本勲氏が保持していた130試合制でのシーズン安打記録「182」にあと1本と迫り、最終戦の西武戦に臨んだ。この時、試合前に自チームのコーチから「相手も承知しているから、セーフティバントをやれ」と言われたという。
「ところが、気持ちが先走り過ぎて、バントをしたのですがファウルになって2ストライクになってしまった。そこで諦めて自力で打つことに決め、スイングしたらヒットが出ました。これで気持ちが楽になり、結局この試合で3安打して、記録を184まで伸ばすことができました」と新井氏は笑う。結局、自力でヒットを打ち続けたのだった。
この話には、「私がオリックスの1軍打撃コーチを務めた1994年、指導していたイチロー(マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)がなんと210安打も放って、いとも簡単に更新されてしまいました」というオチが付く。
「当時は、それまでにタイトルやシーズン打率3割、あるいはプロ野球記録に近づくくらい頑張ったからこそ、周りがいろいろ協力してくれることがある。ご褒美の一種などだと認識していました」と回顧する。
これは古き時代の日本にだけあった“暗黙の了解”なのか。それとも今も形を変えて、脈々と受け継がれているのだろうか……。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)