土壇場で見失った“自分らしさ” 目の前で消えた優勝…屈辱の時間「ベンチに帰るのが嫌」

元近鉄・羽田耕一氏が振り返る「伝説の10.19決戦」
1988年10月19日、近鉄はロッテとのダブルヘッダー第2試合(川崎)を延長10回4-4で引き分けてリーグ制覇を逃した。終盤に首位・西武を追い上げ、この試合に勝てば逆転優勝だったが及ばなかった。「伝説の10.19決戦」と言われるこの試合で10回表、近鉄最後の打者になったのが羽田耕一氏だ。1死一塁で二ゴロ併殺打。「あの場面が一番悔しいですね。ああいう打ち方をしたのが……」。今もなお、無念の思いがあふれ出た。
プロ17年目、1988年の羽田氏は両膝痛などを抱えながらプレーを続けた。「まぁ(体は)ボロボロでしたね」。代打か、相手先発が左腕の時のDHもしくは一塁起用が中心だったが、与えられたポジションで全力を尽くした。4月26日のロッテ戦(川崎)では7番DHで左腕・園川一美投手から1号本塁打。35歳になったシーズンで、百戦錬磨のベテランらしい働きも見せていた。
近鉄は仰木彬監督の1年目シーズン。開幕8試合で7勝1敗と好スタートを切ったが、3連覇中の王者・西武は開幕9試合で8勝1敗。その後は西武に差を広げられていった。6月には主砲のリチャード・デービス内野手が大麻問題で逮捕され退団。重苦しいムードに包まれたが、中日から途中加入のラルフ・ブライアント外野手が74試合で34発と打棒を爆発させるなど、シーズン終盤には猛烈なペースで西武を追い上げた。
「ブライアントはスイングの速さとパワーがありましたね。おとなしかったですけどね」と羽田氏は懐かしそうに話したが、実際、近鉄の勢いは凄かった。9月中旬には西武に6ゲーム差をつけられながら9月16日から8連勝、10月9日からも7連勝するなど大反撃。シーズン129試合目と最終130試合目の10月19日のロッテとのダブルヘッダー(川崎)に連勝すれば、先に全日程を終了していた西武を抜いて逆転優勝できる状況にまで持ち込んだ。
だが、最後の最後で涙をのんだ。第1試合は1-3の8回に追いつき、9回に勝ち越す劇的展開で勝利したが、第2試合は4時間の時間制限があるなか延長10回4-4で引き分けてVを逃した。そんな伝説の10.19の第2試合で羽田氏は10回表の近鉄最後の打者になった。第1試合は途中出場で一塁守備に就き、打席はなかったが、第2試合はロッテ先発が左腕・園川ということあり5番一塁でスタメン出場し、迎えた5打席目がその時となった。
10回1死一塁で相手は右腕・関清和投手。引き分けでは駄目、時間的にもこの回に勝ち越さなければならない状況の中、1ボールからの2球目だった。羽田氏が放った打球は中前に抜けそうな当たりだったが、ロッテの西村徳文二塁手が二塁ベース寄りに守っており、すんなり処理して、そのままベースを踏んで一塁へ送球。無情にも二ゴロ併殺打となり、事実上、その瞬間に近鉄逆転Vの夢はついえた。

何年経っても拭えぬ悔しさ「ああいう打ち方をしたのが…」
「一番悔しいですね。あの場面が……。ああいう打ち方をしたのがね」と羽田氏は唇を噛む。「あの時、ランナーを最低でも進めようという気持ちで打席に立ったんです。それが間違いだったです。普段の僕だったら、引っ張っているのに……。自分で打って返したいと思うのに……」。何とかつなごうとおっつけて打ったのが自分らしくなかったという。打った瞬間は“抜けたか”と思ったそうだが「セカンドの守備位置がコロッと変わっていた。簡単にさばかれましたからね」。
あれから何年経っても、大事な場面でいつも通りにやれなかったことが悔しくてたまらない。「いろんなことを考えるな、普段と同じようにやれ。無心でやらないといけなかったということです」。10.19の話題になれば必ず出てくる“ラストシーン”だけに、忘れたくても忘れられるわけがない。「(二ゴロ併殺打で)ベンチに帰るのが嫌だったです。あのまま帰りたかったですよ」と正直な思いも口にした。
もう近鉄の勝ちがなくなった10回裏も羽田氏は一塁を守ったが、あれほどむなしい守りもなかっただろう。「まぁ、あの試合、ウチのベンチがロッテを野次りすぎでしたね。相手は近鉄が勝っても別に何とも思っていなかったんですから。最初はそういう雰囲気だったと思いますよ。でも、ベンチからガンガン言うから(ロッテ監督の)有藤(通世)さんとか、かなりカッカしていましたからね。そういうこともありましたよね」。
1988年の羽田氏は72試合、打率.269、4本塁打、17打点。一時は現役引退も考えたという。「その年で(同期で同い年の)梨田(昌孝捕手)も辞めましたしね」。それをギリギリで踏みとどまった。「やっぱり最後のバッターということの悔しさがあったからだと思う。(進退について)周りからは何も言われなかったし、あと1年だけ頑張ろうってね」。体はもはや限界を越えていたかもしれない。それでも、このままでは終わりたくなかった。そんな熱い気持ちがプロ18年目、1989年シーズンに向かわせた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)