オリックスOBの集まりに「誰も行かないですよ」 消えない猛牛魂…近鉄戦士の“意地”

元近鉄の羽田耕一はコーチとして石井浩郎、中村紀洋らを指導
元近鉄の4番打者でもある羽田耕一氏は、現役引退後も球団に残り、1990年シーズンから2軍打撃コーチを務めた。1996年から1999年までは佐々木恭介監督、伊勢孝夫ヘッドコーチの下で1軍打撃コーチとしても手腕を発揮。その後も編成担当などフロントとしてもチームを支え続けた。そんな中、ショックだったのは愛着ある近鉄が2004年限りでオリックスに吸収合併されたこと。「ただただ寂しい思いでした」と振り返った。
1989年限りで羽田氏は18年間の現役生活にピリオドを打ち、近鉄2軍打撃コーチに就任した。指導者としても1年目から多くの経験ができたという。「ちょうど野茂(英雄投手、1989年ドラフト1位、新日鉄堺)とか石井(浩郎内野手、同3位、プリンスホテル)が入ってきたんですよね。で、石井とは2軍で、ちょっと練習に付き合ったんですけど、彼は我々とはまた違った考え方を持っていた」と話す。
「バッティング自体、リストを使ってどうのこうのやなくて、彼の場合はバーンとぶつける。ああ、そうなのかぁとね。彼は彼なりにそれでやってきたわけだから、反対もしませんでしたよ。それにすごく真面目で、練習に取り組む姿勢もよくてね。打球方向はやっぱりセンター中心。1軍に上がったら、すんなりすぐスタメンでしたよね」。社会人野球で、もまれた即戦力ルーキーとの出会いが指導者として第一歩だった。
「ファームにはいろんな人間がいてね。高校出の子とかは大変ですよ。ええものを持っているのになかなか出せない。それを練習でいろいろ工夫しながら出せるようにしていく。それはそれで楽しかったですね」と羽田氏は笑みを浮かべた。2軍コーチ時代には中村紀洋内野手(1991年ドラフト4位、渋谷高)、大村直之外野手(1993年ドラフト3位、育英高)らが1軍に羽ばたいていったが、すべての選手たちが結果を出していくことが「うれしかったねぇ」と力を込めた。
1996年から1999年までは佐々木監督体制で1軍打撃コーチとして尽力した。「(ヘッド兼打撃コーチで加わった)伊勢(孝夫)さんが、野村(克也)さんのID野球を取り入れてくれて、僕が(データなどを)つけるようになってね」。ヤクルトコーチ時代に野村監督の野球のすべてを学び、その伝承者でもある伊勢ヘッドの教えは羽田氏にとって、どれもこれも、うなるものばかりだったという。
近鉄の吸収合併は「ただただ寂しい思い」
「もっと早くあれを勉強していれば、と思いましたよ。数字で出てきますからね。攻撃の仕方、各バッターの配球、キャッチャーの癖、ピッチャーの癖……。特にキャッチャーの癖というのはものすごく重要でね。そういうことを僕が現役の時に教えてもらっていたら、違う形で(選手生活を)終われたんじゃないかなぁってね」。4年間の1軍コーチ時代、近鉄は1997年の3位以外、Bクラス。すぐに結果は出なかったものの、指導者としての“引き出し”が増えた貴重な時間だった。
羽田氏はその後、フロント入りしたが、教え子たちが梨田昌孝監督体制の2001年にパ・リーグを制した。「それもうれしかったですね」。9月26日のオリックス戦(大阪ドーム)で超劇的な代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を放った北川博敏捕手にも思い出があるという。「北川はね。僕が獲りにいった選手なんですよ。阪神からね」。
北川は2000年オフに、湯舟敏郎投手、山崎一玄投手とともに阪神から近鉄に酒井弘樹投手、面出哲志投手、平下晃司外野手との3対3の交換トレードで移籍。当時、羽田氏は編成担当として、その成立に関わっていた。阪神では、なかなか1軍で活躍できないでいた北川の潜在能力を高く評価して獲得に動いた。その選手が見事な活躍をしてくれたのだから、これもまた感慨深いものだったわけだ。
しかし、その3年後の2004年限りで近鉄はオリックスに吸収合併されることになった。その年の6月に表面化した。「総務の部長とか、編成の部長から、それなりに、その話は聞いていました。現場の人よりは早く知っていたんじゃないですかね。聞いた時は“そうなのかぁ”って感じで、ただただ寂しい思いでした。バファローズの名前は残りましたけど、近鉄という名前はなくなりましたからね」。
ショックは大きかった。「僕がもしも現役だったら、もっと嫌やって思ったでしょうね」といい、近鉄ナインの気持ちを考えるといたたまれなかった。合併球団の職員にはなったものの、羽田氏のなかから近鉄が消えることもなかった。それこそ“近鉄愛”を持ってバファローズジュニア監督など新たな仕事にも励んだ。2014年末に、そのオリックスも退団。「毎年あるオリックスOBとかの集まりには行っていません。近鉄のメンバーは誰も行かないですよ」とも話した。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)