強豪志望も「今からじゃ難しい」 阪神元ドラ1の岐路…進んだ古豪の意外な“過去”

阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】
阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】

阪神で活躍した湯舟敏郎氏は少年時代は野手中心だった

 1990年阪神ドラフト1位左腕の湯舟敏郎氏(野球評論家)は1976年、貝塚市立東小4年の時に貝塚リトルに入り、本格的に野球をスタートさせた。中学生になっても貝塚シニアでプレーしたが、当時は全く目立つ存在ではなかったという。「シニアの時はファーストの控えでした。ピッチャーもやっていません」。3年時にチームは全国大会に出場。「レギュラーが怪我したので、確か9番・ファーストで出ましたが、チャンスで打てませんでした」と振り返った。

 阪神ではプロ2年目の1992年にノーヒットノーランを達成するなど活躍した湯舟氏だが、野手だった貝塚シニア時代は出番自体、少なかったという。「ファーストの控えで、たまに(試合終盤に)守備固めで行くような感じ。打てなかったし……」。リトル時代には練習試合ながら投手起用があったが「シニアではピッチャーもやっていません。リトルの時のエースがほとんど投げていたし、下(の学年)にも左(投手)がいたんだったかな」。

 湯舟氏が中学3年時の1981年に貝塚シニアは関西大会優勝を成し遂げたが、ほとんどベンチで見たという。「もしかしたら、関西大会の時は守備固めでも出ていなかったかもしれないです。出た記憶がないですから」。ライバルの岸和田シニアには1学年下の清原和博氏(元西武、巨人、オリックス)がいたが、対戦はなかったという。「あの時の岸和田はウチとやる前に負けたんだと思う。でも清原(の打撃)はまぁ凄かったです。シニアでまた名前が轟いたんじゃないですかね」。

 関西大会優勝の貝塚シニアは全国大会に出場。「全国大会は大阪で行われたんですが、その時は僕、出たんですよ。レギュラーの誰かが怪我しちゃったんでね。2回戦で(東京の)調布(シニア)に負けたんですが、その試合には出ました。9番ファーストやったと思います。1点差くらいで負けていて1死二、三塁とかいいところで回ってきたけど、セカンドのすぐ後ろくらいのセンターフライ。結局、点が入らず、そのまま負けたんじゃなかったかな」。

 全国大会での試合出場経験は貴重なものだったが、総じて控え生活だった貝塚シニア時代は湯舟氏にとって苦しい時期だったことだろう。「でも、別に野球をやめようと思うことはなかったんですよね。(試合に出られなくても)やっぱり野球は面白いって思っていたんじゃないかな。そういう気がしますね」と話す。高校は大阪市の私立興国に進学した。1968年の夏の甲子園を制覇したこともある古豪だ。

中学3年時に甲子園8強の和歌山工を希望も叶わず

 もっとも、湯舟氏は「ウチの高校が甲子園で優勝していたなんて全く知らなかったんです」と明かす。監督も興国を全国制覇に導いた村井保雄氏で「すごく有名な方だったのに、えっ、そうなの、みたいな」と苦笑した。「最初は違う高校に行こうと思ったんですが、そこは担任に無理だと言われたんです。それで和歌山工を希望したんですが、そこは越境になるので、今からじゃ難しいとか言われて……」。

 和歌山工は、湯舟氏が中学3年時の1981年夏の甲子園で8強入り。野球を続けることを考えて志望したわけだが、それも叶わず「なんか野球とは縁がないなと思った。で、どうしようかなと考えていたら、友達が興国を受けるよっていうんで、あ、興国ってところもあるんやなと思って受験しただけだったんです。野球部のことなんか何にも知らずにね。まぁ、公立も落ちちゃったんで興国に行くことになったんですけどね」。

 進学を決めてから興国野球部の実績を知ったそうだが、和歌山工断念の時点でいったん野球を切り離しただけに、入部は迷ったという。「どうしようかなって思った。家が近所の親戚の兄ちゃんに『興国って野球強いぞ』みたいなことを言われて、うーん、やろうかなぁくらいな感じで、他の1年生よりちょっと遅れて入部しました」。しかし、この高校時代も決してスムーズにはいかなかった。試練の日々が始まった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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