傷つけた名門の看板…3年連続の“悪夢”「ボコボコにされた」 阪神ドラ1左腕が忘れぬ屈辱

阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】
阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】

元阪神左腕の湯舟敏郎氏は大阪・興国高では主に外野手だった

 1992年にノーヒットノーランを達成した元阪神左腕の湯舟敏郎氏(野球評論家)は大阪・興国高時代、本職は“外野手”だった。1983年の高2年秋から投手でも起用されたが、立場は2番手。看板は打撃力の方でクリーンアップを任され、主将も務めた。だが、結果は残せなかった。1984年の高校生活最後の夏の大阪大会は先発マウンドに上がったが、相手打線に火をつけた形になり、初戦敗退で終了した。

 1982年の興国1年時には左ふくらはぎ肉離れ、左肩痛、左足疲労骨折と怪我が多かった湯舟氏だが、1年の秋からはコンディションは上々で左翼のポジションもつかんだ。「左が、4番を打つファーストの先輩とショートと僕だけだったかな。チーム構成上、左はいた方がいいよねって感じで僕は使われたと思います」と話したが、高校入学以来、打撃力の成長は著しかったようだ。「打順は最初6番か7番で、(1983年の)2年夏の大阪大会では5番でした」。

 その2年夏の大阪大会は初戦の2回戦で近大付に3-5で敗れた。「僕に1本出ていたら同点だったんですけどね。打てなかったんです」。その時の相手は同学年の左腕・木下文信投手(元近鉄、ヤクルト)。「2年の夏も初戦が近大付に決まって、相手が左ピッチャーだね、ということで、また(試合前日まで)僕がバッティングピッチャーとしてかり出されたんですけどね」。

 湯舟氏は前年(1982年)、1年夏の大会前も初戦相手の左投手対策で打撃投手を務めて、連日300球を投げ、左肩痛を発症。そんな苦い経験があったが「今度は僕も試合に出るので打たなきゃいけないしね。それでも毎日150球は投げたと思いますけど、この時は肩が痛くなることはなく、やれました」。しかし、結果は1年夏同様、初戦負けに終わった。

 巻き返しを期しての2年秋、湯舟氏は主将になった。「最初は4人くらいが日替わりで(主将を)していたんです」。その中で指名されての就任だった。クリーンアップを打つ外野手だったが、投手としてマウンドに上がることもあった。「エースがいるんですけど、僕もピッチャーをやりました」と2番手の役割だった。ただし、高校での“初登板”はそれより前にあったという。

「2年生の夏前、5月か6月くらいに近大付のグラウンドで変則ダブルで練習試合があったんですが、ピッチャーが2人くらい風邪か何かで休んだんですよ。で、急きょ、僕が投げることになった。(1年夏に)バッティングピッチャーをやっていたんで『ストライクは入るだろ』ってノリでね。そんな感じだから打たれようが何しようが怒れないので適当に投げました。5回くらい投げさせてもらって最後のイニングで一挙6点とか取られたんだったかなぁ。楽しかったですよ」

KKコンビ擁するPL学園は「レベルが違う」

 そんな経験もあって、2年秋からは2番手投手になった。打撃面では当初、4番を任されていたが、その後、5番になったという。「(1984年の)3年春の大会が終わってから、その年の(春の)選抜に出た三国丘と試合したんですけど、入ったばかりのウチの1年生がホームランを打ったんですよ。で、次の試合からそいつが4番でした。その後、大阪ガスでも活躍した中西(亮介)。プロには行かなかったけど、モノが違いました。3年も2年も誰もかなわなかったですよ」。

 ちなみに中西氏の世代が3年生になった興国は1986年の大阪大会5回戦で野茂英雄投手を擁する成城工を破ったことでも知られる。「(元阪神監督で大阪・桜宮高出身の)矢野(燿大)も中西と同学年なんですけど『中西は有名だった』と言っていました。打撃は本当にすごかったですよ」と湯舟氏は懐かしそうに振り返り「中西が入るまで僕が4番でしたけど、普通にスクイズのサインも出ていたし、僕は4番目みたいな感じだったんですよ」と話した。

 湯舟氏が高校3年時の1984年夏、興国は大阪大会初戦で美原に0-6で敗れた。「その試合、僕が先発して2点取られて、代わったエースも点を取られて、また僕が投げてまた2点取られて負けました。次の試合のことも考えて僕が先発したのかもしれないですけど、ボコボコにされましたね。(相手打線に)火をつけてしまったから、エースも抑えられなかったです」。主将としても「うまくいかなかったですね」と唇をかんだ。

 これで1982年、1983年、1984年と3年連続で夏の大阪大会初戦敗退。1968年に夏の甲子園を制した伝統校・興国にとっては初の屈辱でもあった。「終わった時は、もちろん悔しいっていうのはありました」。当時の大阪は、湯舟氏より1歳年下の桑田真澄投手、清原和博内野手のKKコンビを擁するPL学園が猛烈な強さを見せつけていた。大阪だけでなく全国にその名を轟かせていた。「PLはもうレベルが違うとしか言いようがなかったですね」と別世界に感じたそうだ。

 こうして湯舟氏の高校時代は終わった。この時点までメインは外野手だったし、左腕投手として注目される存在ではなかった。この6年後に投手として阪神ドラフト1位となるとは本人も想像していない。ここから徐々に野球人生の流れが変わっていくことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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