みるみる痩せる体…人生初の海外で“洗礼” 元阪神ドラ1を襲った悪夢「無理」

元阪神・湯舟敏郎氏は社会人時代にも日本代表に選出
阪神で活躍した左腕・湯舟敏郎氏(野球評論家)は社会人野球・本田技研鈴鹿出身だ。奈良産業大(現・奈良学園大)を経て、1989年に入社したが、当初はプロ入りを想定していなかったという。「いいところに就職ができてよかったという感じでした」。そこから頭角を現し、その年8月のインターコンチネンタルカップの日本代表に選出されたが、一気に上昇気流に乗ったわけではない。またもや試練が待っていた。
湯舟氏は奈良産大4年(1988年)6月の全日本大学野球選手権で中央学院大との1回戦と、敗れはしたものの近大との2回戦に登板し好投。日米大学野球選手権の日本代表入りも果たしたが、それより前の時点で本田技研鈴鹿入りが“内定”していたという。「早かったですよ。確か、4年春の(近畿学生)リーグ戦中に(本田技研鈴鹿から)話があって、その時にはもう『行かせてもらいます』と返事したと思います」。
1987年の大学3年春に、湯舟氏は球審の判定に不満そうにしたり、マウンド上の態度が悪いなどの理由で一時、出場停止処分を受けた。「そういうこともあったので(当時の奈良産大)新田(泰士)監督から『ここ(本田技研鈴鹿)以外に入れてもらえるところがないだろうから、お世話にならないとアカン』と言われました」という。「僕が4年生になる年の2月に本田のキャンプに1週間、お邪魔させていただきました。とりあえず左やし、ってことくらいで声をかけてもらったと思います」とも振り返った。
その段階ではプロを意識することなく、いいところに就職ができるとの思いが強かったそうだ。「野球をやめたら、会社をやめなければいけないということでもなかったですしね」。そう話すのは本田技研鈴鹿のレベルの高さもわかっていたからでもある。「僕より6つ上、5つ上とかに全日本にいかれたピッチャーが2人おられた。右と左。実力は相当上で、右の人は150キロとか投げて球がうなっていましたもんね。僕なんかに投げる機会があるとも思っていなかったんです」。
当初はレベルの差を感じるばかりだったわけだが、その中でも全力を尽くした。社会人1年目の1989年、本田技研鈴鹿は都市対抗野球大会に出場できなかったが、湯舟氏はNTT東海の補強選手になった。「なんか入れてもらったような感じだったと思いますけどね」。1回戦の相手は、その年のドラフトの超目玉、トルネード投法の剛腕・野茂英雄投手(元近鉄、ドジャースなど)を擁する新日鉄堺だった。
プエルトリコ戦に先発も初回に5失点「ボコボコにされた」
湯舟氏にとって新日鉄堺は、大阪・興国高からの進路候補のひとつだったが、当時は滅多打ちにあって不採用となった因縁のチームだ。だが、結果は敗戦。同点の終盤からリリーフ登板したが、9回にサヨナラ弾を浴びて負け投手になった。「向こうは野茂が投げていましたけどね。最後は左バッターにレフトへサヨナラホームランを打たれました」。そんな形で終えた都市対抗だったが、左腕から繰り出す投球内容への周囲の評価は悪くなかった。
8月のインターコンチネンタルカップの日本代表に選出された。「野茂に、潮崎(哲也、元西武)、与田(剛、元中日、ロッテ、日本ハム、阪神)さんもいました。錚々たるメンバーでした」。そこに湯舟氏も名を連ねたのだ。しかし、思うような投球はできなかった。大学時代の日米野球でもトップレベルとの差を感じて終わったが「社会人の時(の全日本)もまたボコボコにされました」と苦笑した。
「プエルトリコ戦に先発させてもらったんですけど、初回に先頭打者ホームランと満塁ホームランを打たれて5失点でした。1アウトしかとれなかった。その後は、順位が決まってからのアメリカ戦に1イニング投げさせてもらっただけだったんじゃなかったかなぁ」。またもや打ちのめされたが、このインターコンチネンタルカップの時はグラウンド外でもうまくいかなかったという。
「プエルトリコで開催されたんですが、僕はその時が初めての海外だったんです。選手村だったんですけど、食べ物の味付けが無理で、食べられなかった。行くまでは、大丈夫だと思っていたんですけどね。みんながカップ麺とか味噌汁とかをスーツケースに詰めていても、食べられないものなんかないやろってね。それが違った。しかたなく毎日コーラをがんがん飲んでいましたけど、どんどん痩せていきましたよ」。いい投球ができるコンディションでもなかったようだ。
またも壁にぶつかった社会人1年目だったが、湯舟氏は代表経験を、社会人2年目のドラフトイヤーでもある翌1990年シーズンに生かした。本田技研鈴鹿の主戦投手になり、即戦力左腕としてプロから注目されるようになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)