打球直撃で「歯茎が裂けた」 止まらぬ血、ぶち込まれた金属…元ドラ1を襲った“悪夢”

元阪神・湯舟敏郎氏が忘れぬ怪我「台湾で病院に運ばれた」
元阪神でドラフト1位左腕の湯舟敏郎氏(野球評論家)は社会人2年目(1990年)から本田技研鈴鹿の主戦投手となった。都市対抗野球大会でも好投し、プロから注目される存在に成長したが、ドラフトイヤーでもあったこの年は、思わぬ怪我も乗り越えた復活のシーズンでもあった。「1年目に台湾での試合中に打球が顎に当たって……。(投球再開までに)1か月以上かかったんです」。異国の地で痛い思いをしたという。
社会人1年目の1989年8月に湯舟氏はプエルトリコで開催されたインターコンチネンタルカップの日本代表に選出されたが、プエルトリコ戦で打ち込まれてKOされるなど、いいところなく終了。9月にソウルで行われたアジア野球選手権大会では代表メンバーに入らなかった。「それには外れたんですけど、次の全日本を育てようという感じのBチームみたいなのには入ったんですよ。その年の秋だったと思いますけどね。で、そのチームの試合が台湾であったんです」。
悲劇はそこで起きた。「初戦のカナダ戦にリリーフでいって2イニングくらい投げたのかな。その辺は忘れましたけど、試合には勝ったんです。ただ、最後の打者の打球が顎に当たっちゃって、台湾で救急車に乗せられて病院に運ばれたんです」。骨折ではなかったものの、ヒビが入っており、病院では「金具で(顎を)固定された」という。「(映画『羊たちの沈黙』などに出てくる)レクター博士(がつけている頸部用金属マスク)みたいな、あんな感じでした」。
その装着の時も激しい痛みに襲われたそうだ。「打球が当たって、歯茎が裂けていたんですよ。そこから血も出ていて痛かったんですけど、その(顎につける)金属が太くてなかなかきちっと入らなくて、押し込んで引っ張っていくものですからもう痛くて、痛くて。それは覚えていますね」。台湾の病院で一晩を過ごし「翌日には日本に強制送還でした」と苦笑する。「羽田に着いて川崎かどこかの病院に1日入院してから鈴鹿に帰ったと思いますね」。
回復にも時間を要した。「ピッチングをやるまで1か月以上かかったと思います」。ちょうど時期的に社会人野球の大会などがないオフシーズンだったため、社会人2年目のドラフトイヤー・1990年シーズンには間に合ったものの、それもまた忘れられない痛い思い出のようだ。そして、この年に湯舟氏は本田技研鈴鹿のエースとなった。1年目は3番手投手くらいのポジションだったのが、一気にジャンプアップだ。
因縁の審判と社会人で“遭遇”「不思議なご縁を感じた」
「150キロを投げていた先輩投手が引退されたんです。それで、僕が主戦になった感じでした」と湯舟氏は話すが、顎の怪我を克服し、練習に励み、実力もアップしたからこそだろう。1年目はNTT東海の補強選手としての出場だった都市対抗野球大会にも、エースとして本田技研鈴鹿を導いた。「入社するまではわかっていなかったんですが、都市対抗って野球部だけじゃなくて社員の方、みんなが応援してくれるんでね」と感慨深かったという。
「都市対抗に行けるか、行けないかで大違いなんです。(大会開催地の東京ドームに)どれくらいの社員の方が応援に来られるのかわからないですけど、会社が(応援のために)臨時列車を出してくれるんです。前の年(1989年)に行けなかった時は、全く知らない社員の人に『うちの東京旅行、どうしてくれるんだ』と怒られたこともありましたからね(笑)。もちろん、擁護してくれる人もたくさんいますけど、当時は都市対抗の予選が近づくと先輩たちも殺気立っている感じがしましたね」
そんな中、社会人2年目の湯舟氏はエースとして周囲の期待にも応えたわけだ。東京ドームでの大会本番でも好投を見せた。1回戦のNTT北陸戦では寺西秀人投手(1990年中日ドラフト6位)と投げ合い、完投勝利をマークした。プロ球団の多くのスカウトが湯舟氏をドラフト上位候補としてリストアップ。評価を上げる登板にもなったが、この試合には別の意味でも思い出があるという。
「あの試合の球審は、僕が大学3年の時に審判室に呼ばれて『態度が悪い』と注意された審判の方だったんです。何か不思議なご縁を感じました」。湯舟氏は1987年の奈良産大(現奈良学園大)3年春に、球審の判定に不満そうにするなどのマウンド上の態度が問題視され、近畿学生連盟サイドから出場停止処分を受けたことがあったが、そのきっかけにもなった審判と都市対抗1回戦で“遭遇”。心身共に成長した姿を見せられた試合でもあったのだ。
都市対抗は2回戦でプリンスホテルに敗れたものの、大阪・興国高でも、奈良産大でも、社会人1年目の時も意識していなかったプロについて「もしかしたら行けるのかなぁ。ドラフトにかかるんやったら行こうかなぁって考えはじめたのが、その頃だったと思います」と振り返る。いろんな道をたどりながら、ようやくここまで来た。「本田の高橋監督もどっちかというと(プロに)行け、行けって感じで言ってくれましたしね」。ここから阪神との“縁”が始まることとなる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)