緊急登板直後…阪神左腕を襲った“悪夢” チラつく残像、硬くなる体「何を言っても言い訳」

阪神時代の湯舟敏郎氏【写真提供:産経新聞社】
阪神時代の湯舟敏郎氏【写真提供:産経新聞社】

新庄剛志の守備には「すごく助けられた」

 最後の最後で……。巧みな投球術で知られた元阪神左腕の湯舟敏郎氏(野球評論家)が一気に躍進したのは2年目の1992年だ。ノーヒットノーランを達成した6月と、2試合連続完封勝利マークの9月には月間MVPを受賞。シーズンは11勝8敗、防御率2.82の好成績を残した。だが、チームを優勝には導けなかった。ヤクルトと激しいV争いを展開したなか、10月には痛恨のリリーフ失敗の辛酸をなめ、「それは今でも……」と唇を噛んだ。

 本拠地・甲子園のラッキーゾーンが撤廃された1992年の阪神は、亀山努外野手と新庄剛志外野手の“亀新フィーバー”でも盛り上がり、あと少しでリーグ制覇というところまでいった。そんな年に、チームでは左腕・仲田幸司投手の14勝に次ぐ、11勝を挙げたのが湯舟氏だ。6月14日の広島戦(甲子園)で史上58人目のノーヒットノーランを達成し、その勢いは加速。「確信ではないですけど、自信を持って投げていたのかも、っていうところでしたね」。

 ノーノー達成試合からフォークを多投するようになったという。「(捕手の)木戸(克彦)さんから『ベース板にワンバンになるように投げて来い』と言われたと思う。ショートバウンドでもいいんや、みたいな。そんな思いになったのも、あの(ノーノーの)ゲーム。そこからフォークが勝負球として使えるようになった」。6月は無傷の3勝0敗で月間MVP。さらに終盤の9月も月間MVPと大活躍した。

 9月10日の広島戦(広島)では初の無四球完封で9勝目。9月16日の広島戦(甲子園)では初の2桁10勝目を2試合連続完封勝利でつかんだ。「あの(10勝の)時は新庄のサヨナラ2ラン(で2-0)。“新庄デー”でした。ホームランもそうですけど、(8回2死)満塁で大ファインプレーをしてもらったんですよ。(広島の)山崎隆造さんのセンター前の打球を飛び込んで捕ってくれたんです」。

 新庄はその年の7月からセンターを守るようになったが、湯舟氏は「すごい守備範囲で捕ってくれるのもそうですし、すごい強肩だったので、セカンドランナーがかえってこなくなった。だから本当なら1点入っているところで、もう1回勝負できた。そういう意味でもすごく助けてもらいました」とうなる。「あの守備はムチャクチャ大きかったし、えげつなかった。今でもたくさんの名手がいますけど、僕の中では新庄以上は出てきてないですね」と話すほどだ。

 チームも上げ潮ムードで9月中旬には首位に立った。7連勝で2位に3ゲーム差をつけ、圧倒的に有利な状況で優勝へと向かっていた。ところが、9月22日から4連敗を喫して流れが悪くなった。10月4日からは5連敗。ヤクルトにまくられてのV逸だ。それは湯舟氏にとっても悔しい思い出となっている。「今でも、あそこで優勝できたよなぁって思うのはやっぱりね……」。

阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】
阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】

「10・7」との同率首位対決で痛恨の投球「非常に悔しい」

 無念の思いが募るのは同率首位対決となった10月7日のヤクルト戦(神宮)。3-1の9回裏1死一、三塁の場面で、湯舟氏は先発・中込伸投手に代わってマウンドに上がったが、代打・八重樫幸雄捕手に四球を与えて満塁として、次打者のジョニー・パリデス内野手にはストライクが1球も入らずの押し出し四球。1点差に迫られて降板した。3番手の中西清起投手も打たれて逆転サヨナラ負け。阪神にとっては痛恨の敗戦だった。

「もう何を言っても言い訳なんですけど、代打で八重樫さんが出てこられた時に、前半最終戦に打たれたホームランがバーンと出てきたんですよ」。その年の7月16日のヤクルト戦(岡山)で先発・湯舟氏は2-1の8回に代打・八重樫に逆転2ランを被弾していた。その試合は直後に味方打線が再逆転して勝利投手になったが「10・7」の大一番、2点リードの1死一、三塁でのリリーフマウンドで、その岡山のシーンが脳裏によみがえった。

「“ここで八重樫さんにホームランを打たれたら逆転かぁ”と、いきなり硬くなってしまった。で、フォアボールで……」。阪神・中村勝広監督がマウンドまで来たが「『思い切っていけ』とは言われていると思うんですけど、覚えていないですね」と話す。もはや平常心ではなかったのだろう。続くパリデスに押し出し四球を与えて交代。「ストライクが行かなかったのは、精神的にも、技量的にも足らんかったんやな、と思いますね」と振り返った。

 湯舟氏は10月3日の大洋戦(横浜)で11勝目となる完封勝利を挙げ、「10・7」はそこから中3日でのマウンドだった。「それまで調子がよかったのは確かだし、調子のいい人を使うのはベンチも考えることでしょうからね。リリーフで行くことには何とも思っていませんでした。ただ、あそこで怖いのは長打だったのでね。外野(犠牲)フライで1点だったら、全然何ともなかったことを……」とやはり悔しそうに話す。

 リリーフ失敗から中2日で10月10日のヤクルト戦(甲子園)に先発したが、初回に古田敦也捕手に先制適時打を許し、2回にはジャック・ハウエル内野手にソロアーチを打たれた。2回2失点で降板し、敗戦投手となり、その試合でヤクルトのリーグ優勝が決まった。「(10・7から)やり返したいという気持ちはあったんですけどね。1回は古田にフォークをセンター前へ。2回は(ハウエルに)スライダーをライトにホームランだったと思います」。

 6月にノーヒットノーランを達成するなど11勝を挙げて大躍進のプロ2年目は、いろんなことを経験したシーズンでもあった。「まぁ10月の経験はない方がいいんですけどね。自分でしでかしてしまったんで、もうどうしようもないですけど、非常に悔しいし、ファンの皆さんにも申し訳なかった。チームメートにももちろん……」。あとわずかなところでたどりつけなかった優勝。あれから30年以上が経過しても悔しいものは悔しい。それも忘れることはない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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