15歳で“大博打”「滑ってもいいから」 相手にされなくても…野球実績なしで掴んだ2文字

達川光男氏は牛田中時代は内野手「長嶋さんの真似をしていました」
元広島正捕手の達川光男氏は広島市立牛田中学校の軟式野球部時代、内野手だった。三塁、二塁を守り、巨人・長嶋茂雄内野手の守備シーンをよく真似ていたそうだ。1970年の中学3年時には主将を務めたが「最高成績は2回戦か3回戦くらいだったんじゃないかな」。高校進学では甲子園に憧れて、志望したのは広島県立広島商。学力的に担任教師からは「難しいよ」と言われながら、敢えて挑戦して合格を勝ち取ったという。
中学で軟式野球部に入部して達川氏は本格的に野球に取り組むことになった。「ピッチャーが好きだったんだけど、他にいい選手がいたから、サードをやった。サードはやっぱり長嶋さん。もう真似をしまくりましたよ。ボールを捕ってから投げるまでの仕草とかもね」。幼い頃からカープファンだったが「長嶋さんは、ジャイアンツの長嶋というより、プロ野球の長嶋って感じだからね。そりゃあ憧れていましたよ」とその存在は別格だったようだ。
「中学3年の時はキャプテンをやって、最後はセカンドだったかな。サードを守れる同級生が、他の中学から転校してきたので、私がセカンドになった」。打順については「3番とか4番ももちろん、あったけど、1番が多かったと思う。なんでも出しゃばりだったから、たぶん部長に『1番を打たせて』って言っていたと思うよ」と笑みを浮かべながら振り返った。しかし、チームの成績はもうひとつだった。
「最高で2回戦か3回戦だったんじゃないかな。牛田中学は(開校が1962年の比較的)新しい学校で、1回勝ったら、もうすごく喜んでいた。それまでなかなか勝てなかったけど、私たちの時代からボチボチ勝つようになったんです」。それでも他の中学との差はまだまだあったという。「強い中学はOBの指導者がノックしたりとか教えにいったりするけど、ウチは新しいから、そういうOBもあまりいなかったんですよ」と“練習環境”にも差を感じたそうだ。
中3時にはキャプテンを務めたが「最高成績は2回戦か3回戦だったと思う」
「(強い中学の選手は)みんな甲子園に行きたいから、(強豪校の)広陵とか広島商に行きたいから、(中学の大会を見に来る両校の関係者などに)必死にアピールしていたよ。私らは相手にもされなかったけどね」。そんな中、達川氏にも広島商との“縁”ができたという。「たまたま牛田中から広商に行っている3つ上の先輩の妹が、私と同じ組だった。その先輩が来てくれて『お前、うまいらしいね。広商に来ないか』って誘ってくれたんですよ」。
とはいえ、学力が伴わないと県立校の広島商に合格とはならない。「担任の先生からは『広商に行くには(成績的に)ちょっと(数字が)足りない』と言われた」。勧められたのは広島市立広島商(広島市商)。「でも市商には軟式野球部しかなかった。私はどうしても硬式がしたかったから、滑ってもいいから(県立の)広商を受けさせてくださいとお願いしたんです」。敢えて選択した広商へのチャレンジだった。
「その前に私立の試験を受けて、崇徳に通った」。当初、私立は他に広陵と山陽を受ける予定でいたが「先生が『もう私立は崇徳にしなさい』って。『お前が他のところにも合格したら(高校に)いけない人が出てくるかもしれないし』って。『崇徳は家からも近いし、いいだろう』って。それで広陵とかは受けなかったんですよ」。結果は県立の広商にも合格。見事に第一志望校への進学を勉強で勝ち取った。
「野球で声がかかった人たちがいっぱい広商を受験したけど、私より上手い人はみんな滑った。私が見て、上手やなぁって思っていた人も落ちていた」。そんな状況でつかんだ合格でもあった。中学時代にはこれといった野球実績なし、学力的にも担任教師の反対を押し切って県立広島商を受験し、進学できたことは、1973年夏の甲子園制覇など、その後の達川氏の野球人生に大きなプラスをもたらす。これもまた、ひとつの大勝負だったといっていい。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)