名門大監督が激怒「出入り禁止だ!」 家族に1位確約も…暗黙の了解知らず逃した“大魔神”

野茂、潮崎ら空前の大豊作だった1989年のドラフト
1999年に日本一を達成するなど1990年代後半から2000年代前半にかけて黄金時代を築いた福岡ダイエーホークス。その陰には現ソフトバンク監督の小久保裕紀を含めた当時の内野レギュラー4人を獲得した敏腕スカウトの存在があった。南海で内野手としてプレーし、引退後にスカウトに転身した石川晃氏である。1996年ドラフトでは井口資仁、松中信彦のダブル獲りにも成功。辣腕を振るっていた石川氏は、後に「大魔神」と呼ばれる佐々木主浩にも早くから注目していた。
道都大(現・星槎道都大学)、日産サニー札幌を経て1985年オフにドラフト外で南海に入団した石川氏。俊足巧打の内野手として期待されたが、1軍昇格が決まっていた1988年に右膝靭帯断裂の重傷を負い、半年間の入院を余儀なくされた。「もう野球をできるわけがない」。現役を断念し「北海道に帰ります」と周囲に話していたという。
ところが、後に阪神監督やアテネ五輪チーフスコアラーを務める柴田猛2軍監督から「ダメだ。お前は野球界に残れ」と説得を受けて28歳でスカウトに転身。裏方として新たな道を歩み始めた。
新しい“職場”での1年目は今も忘れられない。何しろ1989年ドラフトは空前の大豊作。投手に野茂英雄、潮崎哲也、佐々岡真司、与田剛、佐々木ら後のタイトルホルダーがズラリと並んでいた。中でも超目玉と言われたのが野茂。豪快なトルネード投法から繰り出す力強い直球と落差の大きなフォークで三振を量産していた。
「新日鉄堺まで野茂を見にいったけど、本当にモノが違っていた」。代名詞のフォークが、見たことのない動きだったと振り返る。「グンと1回浮き上がる感じ。そこからドーンと落ちる。これは異質。フォークが浮くように感じるんですから。映像で見た村田兆治さんに似ているけど、あれは打てないと思った」。実際に見て、受けた衝撃は大きい。「でもね、同じぐらい凄かった」。野茂の話を止めて出した名前が佐々木だった。
東北福祉大時代の佐々木は故障も多く、能力は評価されていたものの常に安定して活躍していたわけではない。ただ「フォーク見た時、『これは打てんわ』と思いました」という。「フォークが4種類ぐらいある。高低、左右に投げ分けるしスピードも変えている」。カウントを整えるフォークと空振りを奪うフォークをコースに投げ分けるから打者にはたまらない。「スピードは148キロとか150キロぐらいだけど、フォークとの緩急でメチャクチャ速く感じました」と振り返った。

野茂に8球団競合、佐々木は大洋の外れ1位
そこから“佐々木詣で”を始め、実家にも何度も足を運んだという。ただ東北高出身の大洋・若生照元スカウト部長が東北福祉大・伊藤義博監督(故人)に食い込み、大洋入りに大きく傾いていた状況だった。スカウトは選手本人とは接触できないため、指導者や家族を通じて情報収集する。指導者は長年の積み重ねで信頼関係を築いたスカウトの球団に選手を入団させたい意向が強く、意中の球団以外には事前に断りの連絡を入れるのが当然の時代だった。
スカウト1年目の石川氏は、そんな“暗黙のルール”を知るはずもなく家族に猛アタック。大洋の条件を上回る、当時の上限いっぱいである契約金8000万円と1位指名を約束するなど誠意を示して家族を口説き、佐々木本人の心をつかんだ。
だが、佐々木からダイエー志望の話を聞いた伊藤監督が激怒。まだ携帯電話がない時代、球団に「すぐ福祉大に来い!」と呼び出しの電話が入った。慌てて駆けつけると顔を真っ赤にした伊藤監督から「出入り禁止だ!」と通告されたという。それから連日、謝罪と約束の撤回で大学へ。グラウンドにもスタンドにも入れず、雨の中でもグラウンドの外で伊藤監督を待ち続けた。
1週間後。伊藤監督から「面白いやつだな。お前みたいなやつは初めてだ」と笑って声をかけられ“出禁”が解かれたという。以降、東北福祉大とは良好な関係を築いていくことになる。
結局、まだ逆指名制度がなかった同年のドラフトでは、野茂にダイエー、大洋を含む8球団が競合。野茂の交渉権は近鉄が獲得し、ダイエーは外れ1位で元木大介を指名した(入団は拒否)。佐々木は大洋が外れ1位で獲得。契約金6500万円で入団した。
「8球団の競合ですから、それだけ野茂は凄かった。でもフォークは佐々木も遜色はなかったですね」。後の名スカウトが回顧した駆け出し時代。脳裏には今も“魔球”のインパクトが強く残っている。
(尾辻剛 / Go Otsuji)