怒り買った強行指名、まさかの通告「クビにします」 状況を一変させた社長の一言

ダイエーなどでスカウトとして活躍した石川晃氏【写真:尾辻剛】
ダイエーなどでスカウトとして活躍した石川晃氏【写真:尾辻剛】

元ダイエー編成次長の石川晃氏、根本陸夫との因縁を説明

 5年ぶりに日本シリーズを制するなど現在は12球団屈指の戦力を誇るソフトバンクだが、前身のダイエー時代は万年Bクラスの低迷期が続いていた。チームのテコ入れのため1993年に監督として招聘したのが“球界の寝業師”の異名をとった根本陸夫(故人)。その根本の右腕として辣腕を振るったのがスカウト、編成次長を歴任した石川晃氏だった。後に主力となる現監督の小久保裕紀や井口資仁、松中信彦をドラフトで獲得。常勝ホークスの礎を築いたが、根本との関係は最初から良好だったわけではないという。

 広島で監督、西武では監督や球団フロント業務を務めていた根本は、西武ではドラフト外で秋山幸二を獲得し、社会人入りが内定していた工藤公康も強行指名して入団にこぎつけるなど剛腕ぶりを発揮していた。1985年のドラフトでは6球団が競合した清原和博のくじを自ら引き当てて交渉権を獲得。黄金時代を築き、その存在感は球界の中でも際立っていた。

 1990年、現役を引退してスカウト2年目だった石川氏は、西武の管理部長だった根本との因縁が生じる。スカウト駆け出しの29歳は怖いもの知らず。「何でもかんでも根本さんでは面白くない」。根本が囲っていた新日鉄君津の左腕・下柳剛の獲得に動いたのである。

 長崎の瓊浦高出身の下柳は、八幡大に進学したものの中退。根本が手を回して新日鉄君津に入社させていたという。「ドラフト2、3位ぐらいの力があった選手。九州に帰りたい気持ちもあると思った」。根本の影響力を快く思わない関係者の協力も得ながら、1年間極秘に君津まで通い続けた。その中で1位同等の金額を用意するなど会社関係者を通じて誠意を伝える一方で、下柳が社会人に残留するように見せかけて根本の目を欺いていった。

 新日鉄の関連会社について石川氏は「根本さんは株を持っていて、仕切っていました。会社の上層部との付き合いも凄かったのは覚えています」と回顧する。「ドラフトで新日鉄の選手を指名する場合、事前に『指名しますけど、いいですよね?』と根本さんの許可をとる必要があったんです。それぐらいの影響力を持っていました」。

 迎えたドラフトではダイエーが下柳を4位で指名。寝耳に水だった根本は烈火のごとく怒りをぶちまけたという。「『石川を呼べ!』って言っていたみたいです。『何で行かないといけないんだ。4位で指名しただけでしょ』って心の中で思っていました」。他球団のスカウトからも心配される状況で、遺恨が残った。

ダイエー初代球団社長との絆「西武に戻っていただきます」

 2年後の1992年オフ、ダイエーは根本を監督として招聘。その際、根本は鵜木洋二球団社長に「石川をクビにします。いいですか?」と切り出したという。多くの権限を与えられて迎え入れられただけに当然、スカウト1人の人事ぐらい受け入れられると思っていたのだろう。だが答えは「NO」だった。

「鵜木さんから電話がかかってきて『おう石川、根本さんに言っといたからな。“すみません、せっかく呼んだんだけど、もし石川をクビにするのなら根本さん、また西武に戻っていただきます”って』と言われたんです。根本さんもビックリしたでしょうね。それから根本さんが私を見る目も変わりましたし、態度もガラッと変わりました」

 実はダイエー初代球団社長の鵜木から目をかけられ続けていた石川氏。「スカウト会議の時も『石川、ちょっと来い』と呼ばれるんです。監督やスカウト部長もいる中で『昼飯、食いに行くぞ』って1人連れ出されることが何度もありました。なぜか気に入られて、カバン持ちみたいな感じで一緒に行動することが多かったです」。行動力、実行力のある石川氏は球団社長に重用されていたのである。

 現役を引退して4年の若き32歳のスカウトと、球団トップである鵜木社長の間にあった強い絆。ドラフトでの因縁は、ちっぽけなことに感じたのかもしれない。根本の中にあったわだかまりは消え、石川氏への信頼は日に日に高まっていった。新たに生まれたのは強力タッグ。力のある選手が集まり始めたダイエーは1990年代後半から2000年代にかけて常勝軍団へと生まれ変わっていったのである。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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