井口&松中獲りの“伝説のドラフト” 王監督激怒も…明かされた獲得の舞台裏

元ダイエー編成次長の石川晃氏、井口&松中獲得の背景を説明
5年ぶりに日本シリーズを制するなど今や12球団屈指の戦力を誇るソフトバンクだが、南海、ダイエー時代は万年Bクラスの低迷期が続いていた。テコ入れのために招聘した根本陸夫監督とともにチーム改革の一端を担ったのが、編成次長を務めていた石川晃氏。根本の右腕として現監督の小久保裕紀ら後の主力選手を次々に獲得した。1996年ドラフトでは井口資仁、松中信彦のダブル獲りに成功。強力な内野陣を形成し、常勝軍団へと変貌を遂げていった。
大学生と社会人の選手が、希望する球団を宣言することができる逆指名制度(後に自由獲得枠制度、希望入団枠制度に名称変更)が導入された1993年に小久保を獲得。1994年は前年の最下位から4位に躍進したものの、根本がフロント業に専念して王貞治監督を招聘した1995年は5位、翌1996年も最下位とBクラスを抜け出せずにいた。
その1996年ドラフト。石川氏が担当したのが青学大・井口と新日鉄君津・松中である。ともに日本代表として同年のアトランタ五輪に出場し、銀メダル獲得に貢献した強打者。根本から「チームは野手から作らないとダメだ」という指示を受け、目玉だった2人に照準を合わせた。
「強いチームは内野陣がいい。巨人V9の黄金期がまさにそうでしょう。三塁・長嶋(茂雄)、遊撃・黒江(透修)、二塁・土井(正三)、一塁・王(貞治)。そういう内野陣が投手を育てるんです。投手がいいからチームが強くなって勝つのではない。野手がいいと投手が投げやすくてチームが勝つんです」
攻撃陣が充実すれば当然、得点力がアップする。守備力もあると試合にリズムが生まれる。「外野は外国人でカバーできるけど、内野の外国人はそんなにいませんから」。一塁手は外国人を補強するケースが多いが、ネックもある。「日本の野球はサインが多くて複雑です。コミュニケーションや、アイコンタクトが必要。そうなると日本人の方がいい」。三塁は小久保がレギュラーを担う中、遊撃・井口、一塁・松中は魅力的な存在だった。
最下位イヤーのドラフト、上位3人が野手…怒った王監督
東京都出身の井口は当初、巨人入りに傾いていたという。「獲れないかな、厳しいかなと思っていました」。逆指名制度が導入されていた時期は、球団と大学・社会人選手の事前接触が認められており、事実上の“事前交渉”が行われていた。石川氏は諦めずに何度もアタック。これからのチームに井口がどうしても必要であることを訴え続け、心をつかんだ。
井口同様、松中にも多くの球団が触手を伸ばしている状況。「『2人とも獲ったらヤバいぞ』という雰囲気はありました」。それでも新日鉄君津には、1990年ドラフトで下柳剛を獲得した際に築いたルートがあった。加えて松中は熊本出身で、九州の球団で活躍してもらいたいという“大義名分”がある。後に早大監督を務める應武篤良監督を説得。ドラフトでは2位指名となるが、1位と同等の条件を約束するなど誠意を示して争奪戦を制した。
こうして逆指名で井口と松中をダブルで獲得。3位指名は九州共立大の外野手・柴原洋と上位は野手が占めた。チームが変わっていく手応えをつかんだ1996年のドラフト。ただ、王監督には「何でピッチャーがいないんだ!」と怒られたという。最下位に沈んだ年でもあり、現場の最高責任者としては即戦力投手が欲しかったのだろう。根本とともにチーム強化のコンセプトを説明して納得してもらったそうだ。
二塁レギュラーは1991年ドラフト3位で獲得した浜名千広。小久保、井口、松中と内野が強力な布陣で固定されたチームは1997年は4位に上昇し、1998年は21年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。そして翌1999年に南海時代以来となる35年ぶりの日本一に輝く。石川氏の狙い通り、野手強化が実を結んだのである。
当時の内野手レギュラーは全員、石川氏が担当して獲得した選手。小久保は本塁打王と打点王、井口は2度の盗塁王、松中は3冠王など多くのタイトルを獲得した。「内野のレギュラー4人を獲れたし、ダイエーの一時代を作れたと思っています」。長い目で見て取り組んだチーム強化の末に抜け出した暗黒時代。チーム力は安定し、黄金期へと続いていった。
(尾辻剛 / Go Otsuji)