幻に終わったホークス・鳥谷敬 相思相愛も“苦渋の決断”「悪いけど指名できない」

元ダイエー編成次長の石川晃氏、和田獲得の背景を説明
万年Bクラスだったダイエーが常勝軍団へと変貌した裏に、敏腕スカウトの存在があった。現ソフトバンク監督の小久保裕紀や井口資仁、松中信彦ら強打者を次々と獲得し、チームは1998年に21年ぶりのAクラス入り。翌1999年には日本一を達成した。内野のレギュラーを固めた編成次長の石川晃氏が次に狙いを定めたのは次代のエース候補。2002年のドラフトでは和田毅の自由獲得枠での獲得に成功した。
大学生と社会人の選手が、希望する球団を宣言することができる逆指名制度(後に自由獲得枠制度、希望入団枠制度に名称変更)が導入されたのが1993年。ドラフトの有力選手にプロ側の情報を開示する意味合いもあり、各球団がアマチュア選手をキャンプに招待する時期があった。
2002年の春季キャンプ。石川氏は「ダイエーには和田と鳥谷(敬)が来たんですよ」と言ってニヤリと笑った。同年ドラフトの目玉だった早大左腕の和田と、1学年下のチームメートで翌年ドラフトの注目選手だった鳥谷。ともに早大とはいえ、豪華すぎる組み合わせ。言及は避けたものの、水面下で手を回し、2人を高知キャンプに招いたのである。
2000年にリーグ連覇を達成した王貞治監督率いるダイエーは2001年、2002年は2位。低迷期を完全に脱して、チームに勢いや活気があった。中心選手に井口ら若手が多い点も魅力的で、常勝チームのエースになってほしかった和田に猛アピール。即戦力左腕のハートを射貫いた。
当時、まだ40代前半だった石川氏は、ドラフトで獲得した選手から慕われる兄貴分的な存在。和田から「兄貴」と呼ばれることもあったという。厳格なタイプだった早大・野村徹監督から呼ばれ「『うちの和田が兄貴と呼んでるのはお前か』と凄まれたことがあります。たばこを吸いながら笑っていましたけど、翌年に鳥谷も控えているから『分かってるだろうな』と、変な動きをしないように釘を刺したんだと思います」と振り返る。
鳥谷の獲得は断念「悪いけど指名できない」
2003年のダイエーは、新人だった和田が14勝する活躍もあってリーグ優勝。日本一も奪回した。当然、同年ドラフトで鳥谷も獲得したかったものの、既に二塁にコンバートされていた井口に代わり、遊撃は当時22歳の川崎宗則が台頭していた。井口に憧れ、ダイエー入りを熱望する鳥谷だったが、チームは同学年の川崎をレギュラーで育成していく方針で一致しており、獲得を断念したのである。
鳥谷から相談を受けた石川氏は「悪いけどトリ、川崎がいるから指名できない」と伝えたという。複数球団の争奪戦となり、鳥谷は迷っていた。その中の1球団が阪神。星野仙一監督が勇退し、早大の先輩である岡田彰布の監督就任が決まっており「岡田さんが監督になるし、高く評価してくれてるなら考えてもいいんじゃないか?」と話したことがあるそうだ。どれだけ影響があったか定かではないが、最終的に鳥谷は自由獲得枠で阪神に入団した。
前年入団の和田は新人王に輝いた後も2度の最多勝やMVPなど複数のタイトルを獲得。3冠王の松中ら数多くのタイトルホルダーを入団させた石川氏は「そうそうたるメンバーを獲ってますね」と懐かしそうに回顧した。
ソフトバンクに球団が売却された2005年以降も続くホークスの黄金時代。その礎を築いたのは、世間的には1999年に死去した根本陸夫となるのだろう。根本の指示を受け、有力選手の獲得に奔走した石川氏は言う。「それでいいんです。石川の名前を出すより、根本さんの名前を出した方が、メディア的にも分かりやすくていいでしょう。それが当たり前です」。
2009年、メジャーリーグから日本球界に復帰した井口は、石川氏が球団幹部として招聘されていたロッテに入団。2019年に阪神を退団した鳥谷もまた、井口が監督を務めていたロッテに入団した。後年まで続いた敏腕スカウトの影響力。そこには切っても切れない、強い絆が見え隠れする。
(尾辻剛 / Go Otsuji)