2年連続日本一も「荷物をまとめとけ」 トレード打診に“自暴自棄”「好きなようにして」

3年目の1980年は“第3捕手”…9試合5打席で1安打、日本一も蚊帳の外
もしかしたら……。現役時代、広島一筋だった達川光男氏だが、1980年のプロ3年目のオフに他球団のユニホームを着る可能性があったという。「トレードの話があったんです」。その年はわずか9試合の出場で5打数1安打に終わっていた。広島が2年連続リーグ優勝&日本一を達成したなかで、水沼四郎捕手と道原裕幸捕手の1軍主力の壁を破れずに伸び悩んでいた頃だ。交換要員などの問題で移籍話は消滅したが、状況は紙一重だったようだ。
ドラフト4位で東洋大からカープ入りした達川氏は1年目の1978年、12試合に出場して、28打数6安打の打率.214、1打点の成績だった。開幕は2軍スタート。7月に1軍昇格し、初出場は7月11日の阪神戦(広島)で、2-12の8回表からマスクをかぶり、8回は土居正史投手、9回は大野豊投手をリードして無失点。9回裏に初打席が回ってきて、池内豊投手からプロ初安打を放った。「センター前。池内さんとは2軍で対戦していた。運もよかったんですよ」。
7月12日の阪神戦から後半開幕の7月28日の大洋戦(広島)までは9試合連続スタメンで起用されたが、「その年はそれで終わりみたいな感じでしたね」。その後は代打から守備についた2試合だけだった。2年目の1979年は5月1日~3日の大洋3連戦(広島)で「8番・捕手」として、池谷公二郎投手、北別府学投手、福士明夫投手での3試合連続完投勝利に貢献するなどしたが、中盤以降、出番が減り、49試合の出場にとどまった。
その年(1979年)の広島はリーグ優勝を成し遂げ、近鉄との日本シリーズも4勝3敗で制覇。第7戦(11月4日、広島)で江夏豊投手が4-3の9回裏無死満塁の大ピンチを封じ、日本一に導いた“江夏の21球”が有名だが、そのシリーズも達川氏は水沼、道原に次ぐ第3捕手の立場で出場はなかった。3年目の1980年はさらに出場が減り、わずか9試合。チームが2年連続でリーグ優勝、日本一に輝いた中で、悔しい結果となった。
トレード話が浮上したのは、そんな3年目の1980年オフという。「当時の球団代表に『西武からトレードの話が来ているから荷物をまとめておけよ』と言われたんです。だから、もうほぼ編成部の中では決まっていたんじゃないかなと思いますよ。(その後に)交換要員(の問題)かなんかがあって(結局)まとまらなかったようですけどね」。西武の話はそれで終わったが、達川氏の移籍話はさらに続いた。
日本ハムとのトレード「私にも話があったそうなんです」
「その年に江夏さんが日本ハムにトレードになったんですが、私にも日本ハムから話があったそうなんです。この時は『日本ハム(監督)の大沢(啓二)さんから求められているぞ。どうだ』とか聞かれて『いいですよ。何でも好きなようにしてください』と言ったんですよ。でも、これも交換要員で折り合いがつかなかったみたいで、なくなりましたけどね」
江夏投手は日本ハム・高橋直樹投手との交換トレードで移籍したが、同じ年のオフには広島・高橋里志投手と日本ハム・佐伯和司投手のトレードも成立しており、達川氏の名前も、その2つのトレードの交渉過程で浮上していた模様だ。広島では当時、伸び悩む第3捕手の立場ながら、他球団編成担当は、将来が楽しみな若手捕手として常にマーク。まさに“商談”次第では、カープを出る可能性もあったわけだ。
達川氏はプロ4年目の1981年、49試合に出場して113打数25安打の打率.221、1本塁打、10打点。5月17日のヤクルト戦(長崎)で左腕・梶間健一投手からプロ初本塁打をマークするなど、前年(1980年)の9試合出場から盛り返した。5年目(1982年)は77試合に出場し、6年目(1983年)にはついに正捕手の座をつかむが、もしも3年目オフに移籍していたら……。「それはまぁ、あれだけど……」。トレード不成立は躍進のきっかけにもなったのかもしれない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)