日本初の”両投げ”投手が明かした苦悩 「前例がないことはダメ」令和で感じた球界の変化

元阪神・近田豊年氏が亡き中村監督に届けたマウンド
竹内茂夫氏が率いた明徳高(現在の明徳義塾)から本田技研工業を経て、1987年にドラフト外で入団した南海とダイエー、その後、阪神でプレーした近田豊年氏が、8日と9日に甲子園球場で行われた「マスターズ甲子園」に出場した。NPB初のスイッチピッチャーは、2015年に66歳でこの世を去った元阪神監督の中村勝広氏へ「楽しんで投げますよ」と言葉を残し、横浜商OB打線に投じた6球を全て左腕から繰り出した。
南海の入団テストで左右両手投げを披露し、スイッチピッチャーとして話題になった近田氏。生まれ育った高知県宿毛市の沖の島は、子どもが少ないことから小・中学校に野球部がなく、さらに島内には右投げ用のグラブしかなかったため、それを左右で入れ替えて使ううちに自然と両手投げになったという。
現在は多彩なプレースタイルが受け入れられ、「二刀流」というフレーズもよく聞くようになった。だが、高知から飛び込んだ昭和のプロ野球界は「新しいスタイルが出てくると拒否されるんですよ。前例がないことはダメだった」と当時を振り返る。どれだけ左腕の調子が悪くても、左肘を手術したあとでも、首脳陣からは左投げでの勝負を求められた。
1988年、大阪スタヂアムでのロッテオリオンズ戦で1軍初登板を果たすと、南海からダイエーに球団名が変わった1989年オフに5対4の大型トレードで、暗黒時代と呼ばれ低迷が続いていた阪神へ移籍。のちにアイドル級の人気を博す新庄剛志氏(日本ハム監督)、亀山努氏らと2軍でプレーし、同年オフに現役を引退した。
左投げと右投げ、どちらにもこだわり首脳陣と軋轢
当時、阪神の1軍監督を務めていた中村氏には「高い評価をしてくれて、よく目にかけてもらいました。『もうちょっと頑張れ。もうちょっと頑張ったら(1軍へ)いけるからな』と声をかけてもらいましたね」と、古き記憶を呼び起こす。
しかし、両手投げにこだわったことで2軍首脳陣との間に軋轢が生じた。「今思えば、僕が全部間違っているんですけどね。左のスピードを生かしたいし、両手でも投げたい僕に、(コーチは)『コントロールを重視せないかんよ』と全部却下。それならもういい…という気持ちになってしまったんですよね」と頭をかいた。
時代は巡り、野球界は新しいスタイルに寛容になった。懐かしい甲子園球場での登板に備えて、左右両腕を温める近田氏を、スタンドにいる観客もカメラ席の関係者も特別視していない。そんな令和の甲子園で楽しそうに投げるスイッチピッチャーの姿を、中村監督も天国から見ていたことだろう。
(喜岡桜 / Sakura Kioka)