「お前じゃ勝てない」 監督からまさかの“発破”…日本一の正捕手が焦り「一番嫌なこと」

プロ7年目に日本一→翌年は故障で95試合に減少
広島の名物捕手でもあった達川光男氏がレギュラーの座をつかんだのは大卒6年目の1983年だ。初の開幕スタメン、オールスターゲームにも初出場するなど、飛躍のシーズンになった。続く7年目の1984年は広島優勝に貢献し、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現在の三井ゴールデン・グラブ賞)も受賞と勢いづいた。ところが、8年目の1985年は一転して出場機会が減少。その年限りで退任した古葉竹識監督からは最後に痛烈なハッパをかけられたという。
1983年の広島は開幕2戦目から2分けを挟んで6連敗を喫するなどスタートダッシュには失敗したものの、5月、6月と巻き返し、前半戦は首位で折り返した。そんなチームで、北別府学投手、川口和久投手、山根和夫投手らをうまく盛り立てたのが、この年から正捕手に抜擢された達川氏だ。その活躍が評価され、球宴にも監督推薦で初出場を果たした。
広島市民球場で行われた第3戦(7月26日)に「8番・捕手」でスタメン出場し、先発・津田恒実投手(3回無失点)、2番手・北別府投手(2回1失点)と広島勢とバッテリーを組んで好リード。打っても3回表に近鉄・鈴木啓示投手から右前打を放って存在感を示した。広島は8月以降に失速して2位に終わったものの、達川氏は116試合に出場して打率.252、5本塁打、41打点と年間を通して活躍した。
プロ7年目の1984年は正捕手として広島をリーグ優勝に導いた。4勝3敗で制した阪急との日本シリーズも全試合にスタメン出場して20打数6安打1打点。第6戦(10月21日、広島)では阪急・佐藤義則投手から本塁打も放った。ところが、8年目の1985年はオープン戦での捻挫による調整遅れも響き、95試合に出場機会が減った。6歳年下の山中潔捕手(1979年ドラフト4位、PL学園)が90試合(スタメンマスクは58試合)に出場した。
その1985年シーズン限りで古葉監督が退任。達川氏は恩師からの指揮官としての“ラストハッパ”が印象に残っているという。「後楽園球場だったと思う。『ちょっと座れ』って言われて『お前のことはよく怒った。監督になって一番怒ったよ。だけど、もし来年も私が監督をやっていたら、山中を(レギュラーで)使って、お前は使わなかった。お前じゃ勝てない。今のままじゃ駄目。もう1回性根を入れて、このオフをやれ!』って言われたんです」。
古葉監督→阿南監督…「とにかく走っておけ! 体力をつけるように」
これに達川氏は発奮した。古葉監督に言われた通り、オフの間にもう一度、やり直した。阿南準郎監督体制になった1986年は128試合に出場し、初めて規定打席に到達しての打率.274、9本塁打、46打点。守備面だけでなく、打撃面でも結果を出した。球宴にも監督推薦で選出され、2度目の出場となった。広島もリーグ優勝。日本シリーズこそ西武に敗れたものの、赤ヘルの司令塔として見事なばかりの復活劇を見せたのだ。
当時を思い出しながら、達川氏は「古葉さんは、私が言われて、一番嫌なことを言ったわけですよ」と話す。レギュラー捕手としてのプライドもあったし、もちろん、後輩たちに負けるわけにはいかないとも思いもあった。だからこそ激辛な“古葉ゲキ”は胸に響いたし、自然と気合が入った。それが翌年にもつながったわけだ。
その上で達川氏は、こんなことも明かす。「そのオフに(新監督の)阿南さんからも呼ばれたんですよ。『来年(1986年)、お前を使うから、とにかく走っておけ! 体力をつけるように!』って。古葉さんとは真逆の話でしたけどね。オフは(広島市を流れる)太田川の土手を走りましたよ」。内容は違っても、さらに精進しなければいけないことには変わりない。新旧指揮官にうまくのせられたのかもしれないが、このオフが転機になったのも間違いない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)